2011年03月18日
長野県等の列車運行状況【3月18日】 &節約のススメ
依然、飯山線と小海線に大幅な見合わせや運休が発生しています
・飯山線:戸狩野沢温泉~越後川口駅間の上下線で終日運転を見合わせます。長野~戸狩野沢温泉駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
・小海線:小淵沢~小海駅間の上下線で終日運転を見合わせます。小海~小諸駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
また、長野県隣接する関東地域では、中央本線や信越本線に依然影響が出ているようです。

「う~む、停電と上越の地震の影響で、上の4路線では大幅運休の状態が当面の間、続きそうじゃのう・・・」

「このあたり、電車やバスに移動手段を大きく頼っているお年寄りの方々が心配ですよね、佐渡先生。細かい運行状況は毎日変わるものだから、近隣の人たちには下のサイトで日々、チェックして出かけてほしいわ」
JR東日本管内の運転状況
Google鉄道遅延情報

「確かにな。じゃがのう、大きな被害を出した東北の人々は比べ物にならぬくらいの避難生活を強いられているのだ。ここいらの停電や物不足くらい、不便だとか言っておっては、多くの不安を抱えて避難生活なさっている人々に申し訳が立たぬというものじゃ。」
《今、震災被害のために出来る身近なこと》
・日ごろの節電;いつも以上にこまめな節電
・むやみに買いだめをしない;被災地へも物資が流れるように冷静になって必要分だけ確保する
・計画停電への協力;運休も暗い部屋もなんのその!
・戦時中ではないけれど、この状況下、ぜいたくは敵だ!! 浪費・ぜいたく・ムダ追放
・出来れば関東、東北への観光旅行等は控える;交通機関の運行状況が不安定なこの状況下、コスト節減(現地で生活する人や仕事の人が利用優先)だけでなく、自らの身を守るためにも
・義援金などの寄付;被災地への物資調達に寄与します
・ボランティアへの志願;ただ、これは一定以上のスキルが求められることが多い。特に被災地の状況が不安定であればあるほど。NPOや公募情報をチェック。
・飯山線:戸狩野沢温泉~越後川口駅間の上下線で終日運転を見合わせます。長野~戸狩野沢温泉駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
・小海線:小淵沢~小海駅間の上下線で終日運転を見合わせます。小海~小諸駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
また、長野県隣接する関東地域では、中央本線や信越本線に依然影響が出ているようです。

「う~む、停電と上越の地震の影響で、上の4路線では大幅運休の状態が当面の間、続きそうじゃのう・・・」

「このあたり、電車やバスに移動手段を大きく頼っているお年寄りの方々が心配ですよね、佐渡先生。細かい運行状況は毎日変わるものだから、近隣の人たちには下のサイトで日々、チェックして出かけてほしいわ」
JR東日本管内の運転状況
Google鉄道遅延情報

「確かにな。じゃがのう、大きな被害を出した東北の人々は比べ物にならぬくらいの避難生活を強いられているのだ。ここいらの停電や物不足くらい、不便だとか言っておっては、多くの不安を抱えて避難生活なさっている人々に申し訳が立たぬというものじゃ。」
《今、震災被害のために出来る身近なこと》
・日ごろの節電;いつも以上にこまめな節電

・むやみに買いだめをしない;被災地へも物資が流れるように冷静になって必要分だけ確保する
・計画停電への協力;運休も暗い部屋もなんのその!
・戦時中ではないけれど、この状況下、ぜいたくは敵だ!! 浪費・ぜいたく・ムダ追放
・出来れば関東、東北への観光旅行等は控える;交通機関の運行状況が不安定なこの状況下、コスト節減(現地で生活する人や仕事の人が利用優先)だけでなく、自らの身を守るためにも
・義援金などの寄付;被災地への物資調達に寄与します
・ボランティアへの志願;ただ、これは一定以上のスキルが求められることが多い。特に被災地の状況が不安定であればあるほど。NPOや公募情報をチェック。
2011年03月17日
長野県内の列車運行状況【3月17日】
依然、飯山線と小海線に大幅な見合わせや運休が発生しています
・飯山線:戸狩野沢温泉~越後川口駅間の上下線で終日運転を見合わせます。長野~戸狩野沢温泉駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
小海線:小淵沢~小海駅間の上下線で終日運転を見合わせます。小海~小諸駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
また、長野県隣接する関東地域では、中央本線や信越本線に影響が出ているようです。
中央本線:15:00頃から19:00頃まで、韮崎~小淵沢間で運転を見合わせます。
信越本線:高崎~安中間、30%程度運転 ※安中~横川間は終日運休
JR東日本管内の運転状況
Google鉄道遅延情報
・飯山線:戸狩野沢温泉~越後川口駅間の上下線で終日運転を見合わせます。長野~戸狩野沢温泉駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
小海線:小淵沢~小海駅間の上下線で終日運転を見合わせます。小海~小諸駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
また、長野県隣接する関東地域では、中央本線や信越本線に影響が出ているようです。
中央本線:15:00頃から19:00頃まで、韮崎~小淵沢間で運転を見合わせます。
信越本線:高崎~安中間、30%程度運転 ※安中~横川間は終日運休
JR東日本管内の運転状況
Google鉄道遅延情報
2011年03月16日
長野県内の列車運休情報【3月16日】
長野県内では、北部や山梨県や静岡県寄りの地域で、本日も運転見合せや運休が出ています。運休等の発生情報が出ている路線を載せます
・小海線:小淵沢~小海駅間の上下線で終日運転を見合わせます。小海~小諸駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
・飯山線:戸狩野沢温泉~越後川口駅間の上下線で終日運転を見合わせます。長野~戸狩野沢温泉駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
・中央本線:高尾~甲府間は通常の9割運行(正常に近い)。甲府~小淵沢間では通常の7割運行。特急あずさは全面運休。東京都内から長野県(諏訪、松本)への直通電車なし。
ここに情報を掲示するとき、口頭で伝えられる以外の情報を提供するときに参照しているのが次のホームページです。しばらくは、毎日チェックすることになりそうですな
JR東日本管内の運転状況
Google鉄道遅延情報
この2つをチェックしていれば大体把握できるのでは。
まだ、ご存じない方は、どうぞ
・小海線:小淵沢~小海駅間の上下線で終日運転を見合わせます。小海~小諸駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
・飯山線:戸狩野沢温泉~越後川口駅間の上下線で終日運転を見合わせます。長野~戸狩野沢温泉駅間は朝夕の一部列車のみ運転します。
・中央本線:高尾~甲府間は通常の9割運行(正常に近い)。甲府~小淵沢間では通常の7割運行。特急あずさは全面運休。東京都内から長野県(諏訪、松本)への直通電車なし。
ここに情報を掲示するとき、口頭で伝えられる以外の情報を提供するときに参照しているのが次のホームページです。しばらくは、毎日チェックすることになりそうですな
JR東日本管内の運転状況
Google鉄道遅延情報
この2つをチェックしていれば大体把握できるのでは。
まだ、ご存じない方は、どうぞ
(藤堂判九郎)
2011年03月15日
長野県内の列車運休情報【3月15日】
藤堂です。
信越北部での地震、関東一円での計画停電の影響を受けて、長野県でも北部と山梨県に近い地域で列車の運休が本日も発生中です。
(長野県内列車運休状況)
・中央本線:甲府~富士見駅間の上下線で終日運転を見合わせます。特急あずさも運休中。
・飯山線:戸狩野沢温泉~越後川口駅間の上下線で終日運転を見合わせます。長野~戸狩野沢温泉駅間の上下線で通常の3割程度での運転本数となります。
・小海線:小海~小諸駅間の上下線で運転を見合わせています。17時ごろ、小海~小諸駅間の運行を再開し、小淵沢~小海間を運休にしています。
以上、他の路線等はこちらを参照ください。
関東地方では、長野以上に大幅な運休(運転率が軒並み50%前後が多いという)や運転見合わせが発生中で、中央本線でも東京から甲府までは運行しているものの、大幅な本数減少だそうです。
首都圏から長野県ヘのアクセスは、長野新幹線に集中傾向にあり、通常より明らかに混雑していると聞き及んでいます。
また、長野近隣では信越本線が、高崎~横川間で運転見合わせ中。ただ、横川から軽井沢への関東バス碓氷線は運行中のようですが、長野新幹線を使わずにアクセスするのはやや難しそうです。
信越北部での地震、関東一円での計画停電の影響を受けて、長野県でも北部と山梨県に近い地域で列車の運休が本日も発生中です。
(長野県内列車運休状況)
・中央本線:甲府~富士見駅間の上下線で終日運転を見合わせます。特急あずさも運休中。
・飯山線:戸狩野沢温泉~越後川口駅間の上下線で終日運転を見合わせます。長野~戸狩野沢温泉駅間の上下線で通常の3割程度での運転本数となります。
・小海線:
以上、他の路線等はこちらを参照ください。
関東地方では、長野以上に大幅な運休(運転率が軒並み50%前後が多いという)や運転見合わせが発生中で、中央本線でも東京から甲府までは運行しているものの、大幅な本数減少だそうです。
首都圏から長野県ヘのアクセスは、長野新幹線に集中傾向にあり、通常より明らかに混雑していると聞き及んでいます。
また、長野近隣では信越本線が、高崎~横川間で運転見合わせ中。ただ、横川から軽井沢への関東バス碓氷線は運行中のようですが、長野新幹線を使わずにアクセスするのはやや難しそうです。
(藤堂判九郎)
2011年03月14日
【臨時休業】江ノ電及び江の島の各施設について
輪番停電に関する湘南江の島関連の情報を得ました。
江ノ電は15時から22時まで運休予定。
また,江の島の各観光施設は以下のとおり。
・新江ノ島水族館:本日14日は休業。明日以降は未定
・江の島岩屋:3月14~16日まで閉鎖決定
・江の島エスカーとサムエルコッキング苑:本日は確認準備が整い次第,営業開始とのことですが,詳細は不明。
なお,湘南鎌倉方面へ通じる電車の本日14日の状況はこちらにまとめました。
以上,取り急ぎ。
江ノ電は15時から22時まで運休予定。
また,江の島の各観光施設は以下のとおり。
・新江ノ島水族館:本日14日は休業。明日以降は未定
・江の島岩屋:3月14~16日まで閉鎖決定
・江の島エスカーとサムエルコッキング苑:本日は確認準備が整い次第,営業開始とのことですが,詳細は不明。
なお,湘南鎌倉方面へ通じる電車の本日14日の状況はこちらにまとめました。
以上,取り急ぎ。
2011年03月14日
取り急ぎ、長野県内の運休情報!
長野県内においても、輪番停電の影響で運休が発生しました。
以下の通り。
・中央本線[大月~塩尻] 03月14日06時00分 運転見合わせ 計画停電(輪番停電)のため、大月~富士見駅間の運転を見合わせています。
・小海線 03月14日06時00分 運転見合わせ 計画停電(輪番停電)のため、終日、小淵沢~小海駅間の運転を見合わせています
・篠ノ井線 03月14日06時00分 運転状況 中央本線内での計画停電(輪番停電)のため、塩尻~松本駅間の一部列車に運休が出ています。
中央本線、小海線は山梨県内およびその近隣エリアの路線で運転見合わせ、篠ノ井線は一部運休が発生中。
事態は刻一刻と変化しています。
最新情報にご注意ください→「長野県内における列車運行状況」
以下の通り。
・中央本線[大月~塩尻] 03月14日06時00分 運転見合わせ 計画停電(輪番停電)のため、大月~富士見駅間の運転を見合わせています。
・小海線 03月14日06時00分 運転見合わせ 計画停電(輪番停電)のため、終日、小淵沢~小海駅間の運転を見合わせています
・篠ノ井線 03月14日06時00分 運転状況 中央本線内での計画停電(輪番停電)のため、塩尻~松本駅間の一部列車に運休が出ています。
中央本線、小海線は山梨県内およびその近隣エリアの路線で運転見合わせ、篠ノ井線は一部運休が発生中。
事態は刻一刻と変化しています。

最新情報にご注意ください→「長野県内における列車運行状況」
(藤堂判九郎)
2011年03月13日
運行状況等の情報(長野県・鎌倉)
まほろば旅日記統括長、藤堂です。

【長野県内の状況】
本日、3月13日、長野県の列車等はほぼ通常通りの運行に回復しています。
(JR)
・長野新幹線:遅延しながらも運行中
・中央本線:特急、普通ともほぼ正常どおり運行中
・信越本線:高崎~横川間、長野~長岡間ともに運行中
・飯山線:長野~戸狩野沢温泉駅折り返し運転中(戸狩野沢温泉~越後川口駅間の運転を見合わせています)
(在来の私鉄等)
・しなの鉄道:正常どおり運行中
・上田電鉄別所線:正常どおり運行中
・長野電鉄:正常どおり運行中
(バス等)
・おおむね正常どおり運行中
・JR関東バス碓氷線(軽井沢~横川間):正常どおり運行中
以上、3月13日午前10時現在の情報です。
長野県北部(栄村)にて昨日、震度6の地震があったものの、昨日夕方から本日にかけては、飯山線を除いて長野県内の電車・バスともにほぼ正常に復帰している様子です。
ただし、強い揺れのあった栄村とその周辺はいまだ通行止めが解除されておらず、野沢温泉村から栄村への通路は今も閉鎖されています。
昨日未明の強い揺れではないものの、長野県北部では今なお震度3程度の余震が断続していることだけ申し添えます。

「東北ではまだまだ多くの人々が困っておる。長野とて揺れが軽微だからって、油断は禁物じゃぞ~」
交通機関がほぼ正常化したとはいえ、当該エリアでのスキーや雪山観光はやはりおすすめできません。
その他の交通機関等はこちら
【鎌倉の状況】
KIです。
3月11日,東京都内で地震に遭い,道中,町田市内のビジネスホテルで一泊しながら昨日の夕方にようやく鎌倉に帰りつくことができました。

鎌倉の現況ですが,交通機関(鉄道・バス)は本日3月13日は正常どおりとなっています。昨日は部分運休していた横須賀線及び江ノ電,小田急線とも始発から正常運行となっています。
湘南新宿ラインも正常運行しているようです。
次に,湘南鎌倉の観光施設等の情報ですが,昨日は江ノ島への立ち入りは全面禁止だったそうですが,本日は解除されているようです(ただし,島内の観光施設は臨時休業中)。
3月12、13に予定されていた湘南江の島春まつりは両日とも中止(延期等はなく完全に中止)されております。
新江ノ島水族館も13日は臨時休業で,14日以降も開館か休業かは未定。鎌倉市内の寺社等は通常通り参拝できます。
以上,3月13日13時の鎌倉市内交通状況と周辺観光の情報です。

【長野県内の状況】
本日、3月13日、長野県の列車等はほぼ通常通りの運行に回復しています。
(JR)
・長野新幹線:遅延しながらも運行中
・中央本線:特急、普通ともほぼ正常どおり運行中
・信越本線:高崎~横川間、長野~長岡間ともに運行中
・飯山線:長野~戸狩野沢温泉駅折り返し運転中(戸狩野沢温泉~越後川口駅間の運転を見合わせています)
(在来の私鉄等)
・しなの鉄道:正常どおり運行中
・上田電鉄別所線:正常どおり運行中
・長野電鉄:正常どおり運行中
(バス等)
・おおむね正常どおり運行中
・JR関東バス碓氷線(軽井沢~横川間):正常どおり運行中
以上、3月13日午前10時現在の情報です。
長野県北部(栄村)にて昨日、震度6の地震があったものの、昨日夕方から本日にかけては、飯山線を除いて長野県内の電車・バスともにほぼ正常に復帰している様子です。
ただし、強い揺れのあった栄村とその周辺はいまだ通行止めが解除されておらず、野沢温泉村から栄村への通路は今も閉鎖されています。
昨日未明の強い揺れではないものの、長野県北部では今なお震度3程度の余震が断続していることだけ申し添えます。

「東北ではまだまだ多くの人々が困っておる。長野とて揺れが軽微だからって、油断は禁物じゃぞ~」
交通機関がほぼ正常化したとはいえ、当該エリアでのスキーや雪山観光はやはりおすすめできません。
その他の交通機関等はこちら
(藤堂判九郎)
【鎌倉の状況】
KIです。
3月11日,東京都内で地震に遭い,道中,町田市内のビジネスホテルで一泊しながら昨日の夕方にようやく鎌倉に帰りつくことができました。

鎌倉の現況ですが,交通機関(鉄道・バス)は本日3月13日は正常どおりとなっています。昨日は部分運休していた横須賀線及び江ノ電,小田急線とも始発から正常運行となっています。
湘南新宿ラインも正常運行しているようです。
次に,湘南鎌倉の観光施設等の情報ですが,昨日は江ノ島への立ち入りは全面禁止だったそうですが,本日は解除されているようです(ただし,島内の観光施設は臨時休業中)。
3月12、13に予定されていた湘南江の島春まつりは両日とも中止(延期等はなく完全に中止)されております。
新江ノ島水族館も13日は臨時休業で,14日以降も開館か休業かは未定。鎌倉市内の寺社等は通常通り参拝できます。
以上,3月13日13時の鎌倉市内交通状況と周辺観光の情報です。
2011年03月12日
【地震速報】鎌倉方面へと向かう列車
藤堂判九郎です。
ここは長野県だけではなく鎌倉方面の話も扱っているので、そちら方面への列車についての情報も掲載します。
・湘南新宿ライン:3月12日17時現在も全線で運転見合わせ中
・高崎線(高崎~上野):運行中。ただし運休と一部遅延あり
・八高線(高崎~八王子):運行中。ただし運休と一部遅延あり
・横須賀線:3月12日17時現在も全線で運転見合わせ中。ただし、大船~逗子間のみで運行中。
また、鎌倉市内では、江ノ電が、稲村ガ崎駅~江ノ島駅間で運転見合わせ中です
鎌倉市の海沿いエリアは今なお津波注意報が出ているから安全とはいえませんぞ。
鎌倉方面ではないが、千葉県内では今なお大幅な運転見合わせが発生中です。
気になるのは横須賀線の運休ですが、明日もこのままの状態が続けば、首都圏から鎌倉へ直接アクセスは不可能です。
やはり災害中は観光は控えるべきですが、ビジネスや公用で首都圏あるいは北関東から鎌倉方面へ行かなければならない場合は、下のようにアクセスすることになりましょう。
(在来線だけで高崎から東京経由で鎌倉に行く場合)
高崎=(JR高崎線)=上野=(JR山手線)=東京または新橋または品川=(東海道線)=大船=(横須賀線)=鎌倉
なお、高崎から東京までは長野新幹線または上越新幹線で、東京まで出るという手段もありますが、それより先は東海道線と横須賀線で行くしかありません。

オレは、オレは・・・どうしても鎌倉に行かなきゃならないんだ・・・
↑ こんな人は上のアクセス方法で鎌倉へどうぞ。ただし、今なお津波注意報が続いているくれぐれも海沿いには近づかないように!
ここは長野県だけではなく鎌倉方面の話も扱っているので、そちら方面への列車についての情報も掲載します。
・湘南新宿ライン:3月12日17時現在も全線で運転見合わせ中
・高崎線(高崎~上野):運行中。ただし運休と一部遅延あり
・八高線(高崎~八王子):運行中。ただし運休と一部遅延あり
・横須賀線:3月12日17時現在も全線で運転見合わせ中。ただし、大船~逗子間のみで運行中。
また、鎌倉市内では、江ノ電が、稲村ガ崎駅~江ノ島駅間で運転見合わせ中です
鎌倉市の海沿いエリアは今なお津波注意報が出ているから安全とはいえませんぞ。
鎌倉方面ではないが、千葉県内では今なお大幅な運転見合わせが発生中です。
気になるのは横須賀線の運休ですが、明日もこのままの状態が続けば、首都圏から鎌倉へ直接アクセスは不可能です。
やはり災害中は観光は控えるべきですが、ビジネスや公用で首都圏あるいは北関東から鎌倉方面へ行かなければならない場合は、下のようにアクセスすることになりましょう。
(在来線だけで高崎から東京経由で鎌倉に行く場合)
高崎=(JR高崎線)=上野=(JR山手線)=東京または新橋または品川=(東海道線)=大船=(横須賀線)=鎌倉
なお、高崎から東京までは長野新幹線または上越新幹線で、東京まで出るという手段もありますが、それより先は東海道線と横須賀線で行くしかありません。

オレは、オレは・・・どうしても鎌倉に行かなきゃならないんだ・・・
↑ こんな人は上のアクセス方法で鎌倉へどうぞ。ただし、今なお津波注意報が続いているくれぐれも海沿いには近づかないように!
Posted by まほろば旅日記編集部 at
18:50
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2011年03月12日
【地震速報】長野県エリアの列車運行状況
まほろば旅日記統括長、藤堂判九郎です。
長野県内のいくつかの列車路線の運行状況について動きがありました。
まとめます。
(JR)
・長野新幹線:16時、上下線とも運行再開。ただしダイヤは乱れています。
・中央本線:大月~松本間で運転見合わせていたが、16時現在、本数を減らして特急、普通とも運転再開。
・松本~長野および長野~篠ノ井:通常どおり運行中
・小海線:全線で運行中。ただし、小淵沢~中込駅間の一部列車に遅れが出ています。
・信越本線:高崎~横川間では運行中(ただし列車遅延)、長野~長岡間は16時前に運行再開
(私鉄各社等)
・しなの鉄道:軽井沢~篠ノ井の全線で通常運行中
・上田電鉄別所線:全線で通常通り運行中
・長野電鉄:全線で通常通り運行中
長野県内では、未明に大きな地震があったものの、在来線や首都圏と結ぶ路線などは遅れや運休を出しながらも運行しているようです。
ただし、お隣の新潟県ですと、まだ運行再開のメドはたっていないようです。
参考までにその他の路線の最新情報はこちら

これは藤堂個人の見解ですが、長野県内では運転見合わせの状態はほぼ解消されたものの、余震の懸念もあることなので、ビジネス・出張はともかく、少なくとも今日明日を含めてしばらくは長野県方面への観光旅行はやはりおすすめできません。
何もなければこのまま順次、列車の運行は通常へと戻っていくでしょうが、余震の恐れもまだ報道されています。
地震があったエリアの方々はくれぐれも最新の情報にご注意ください。
長野県内のいくつかの列車路線の運行状況について動きがありました。
まとめます。
(JR)
・長野新幹線:16時、上下線とも運行再開。ただしダイヤは乱れています。
・中央本線:大月~松本間で運転見合わせていたが、16時現在、本数を減らして特急、普通とも運転再開。
・松本~長野および長野~篠ノ井:通常どおり運行中
・小海線:全線で運行中。ただし、小淵沢~中込駅間の一部列車に遅れが出ています。
・信越本線:高崎~横川間では運行中(ただし列車遅延)、長野~長岡間は16時前に運行再開
(私鉄各社等)
・しなの鉄道:軽井沢~篠ノ井の全線で通常運行中
・上田電鉄別所線:全線で通常通り運行中
・長野電鉄:全線で通常通り運行中
長野県内では、未明に大きな地震があったものの、在来線や首都圏と結ぶ路線などは遅れや運休を出しながらも運行しているようです。
ただし、お隣の新潟県ですと、まだ運行再開のメドはたっていないようです。
参考までにその他の路線の最新情報はこちら

これは藤堂個人の見解ですが、長野県内では運転見合わせの状態はほぼ解消されたものの、余震の懸念もあることなので、ビジネス・出張はともかく、少なくとも今日明日を含めてしばらくは長野県方面への観光旅行はやはりおすすめできません。
何もなければこのまま順次、列車の運行は通常へと戻っていくでしょうが、余震の恐れもまだ報道されています。
地震があったエリアの方々はくれぐれも最新の情報にご注意ください。
(藤堂判九郎)
2011年03月12日
【緊急】大地震に伴う列車の運行状況等
まほろば旅日記グループの統括長、藤堂判九郎です。
昨日午後の三陸沖大地震の影響で交通機関の乱れが今なお発生中です。
また、未明に長野県でも強い地震がありました(北部の一部では震度6に達しました)
私の居住する長野県はじめ東日本の列車運行状況です。
↓↓↓どうぞ
鉄道遅延情報
この情報板には載っていませんので、ひとつ情報提供
中央本線は現在、大月~松本間で運転を全面的に見合わせています(東京~大月間の普通・快速のみ運行)。
大月から甲府・長野方面へ向かう列車は、普通・特急を問わずすべて運転見合わせです。16時時点、本数を大幅に減らして運行再開と観光協会に連絡がありました
関東方面から甲府・諏訪・松本方面へお出かけ予定の人は今後の情報にご注意ください。

どうも東日本で規模の大きい地震が連鎖している様子です。当該地域の方は外出自粛とともに安全対策、今後の情報くれぐれもご注意ください。
(藤堂判九郎)
昨日午後の三陸沖大地震の影響で交通機関の乱れが今なお発生中です。
また、未明に長野県でも強い地震がありました(北部の一部では震度6に達しました)
私の居住する長野県はじめ東日本の列車運行状況です。
↓↓↓どうぞ
鉄道遅延情報
この情報板には載っていませんので、ひとつ情報提供
中央本線は現在、大月~松本間で運転を全面的に見合わせています(東京~大月間の普通・快速のみ運行)。
関東方面から甲府・諏訪・松本方面へお出かけ予定の人は今後の情報にご注意ください。
どうも東日本で規模の大きい地震が連鎖している様子です。当該地域の方は外出自粛とともに安全対策、今後の情報くれぐれもご注意ください。
(藤堂判九郎)
2011年02月27日
はだれゆき鶴岡八幡宮
湘南の 豪雪いずこ 班雪(はだれ)宮
冒頭写真は2011年2月15日,朝7時の鎌倉は鶴岡八幡宮です。前回まで長らく信州の話題でしたが,今回はずっと南下した鎌倉からお届けします。
古都鎌倉のシンボル,鶴岡八幡宮
信州へと続く鎌倉街道上道のまさにスタート地点にあたるのが,源頼朝が大臣山に建設したこの神社です。去る2月14日,信州からすれば南国のこの地でも夕刻から夜半にかけて,大雪が何時間にもわたって降りしきりました。
そして翌朝,あたり一面の雪景色かと思いきや,日の出とともに木々や電線からポタポタとしたたり落ちる雪解け水。
そんな中,まだ雪残る鶴岡八幡宮へと急ぎ足で向かいました。
●鶴岡八幡宮本殿の脇に残る班雪(はだれ)
「班雪」と書いて,「はだれ」または「はだれゆき」と読みます。雪が止んだ後もしばらく点々とまだらに残っている雪のことです。
2月中旬であれば,気温の低い信州であれば,たとえ雪が止んでも一面の雪景色がしばらくは拝めるところでしょうが,ここ湘南ではすぐに南から相模湾岸に暖かい空気が吹き抜けるのでしょう。
●石段の狛犬はこのとおり
とかく,前夜の凍てつくような寒さに比べれば,あまり寒さを感じない冬の朝でした。
こうして撮影している間にも,社殿の屋根から水のしたたり落ちる音が絶え間なく,ドカッと雪塊が落下する音が時折します。
それでも,南関東ではこれが今年の初冠雪。
●午前8時,白旗神社(左)と舞殿(右)
まだほとんど人影がない境内です。濡れた石畳や屋根が朝日を反射します。
まもなく神社の職員がちらほらと姿をあらわして,氷のかたまりなどを掃除し始めました。
●午前9時,雪解けの境内に人影が目立ち始めました
前夜に大雪警報もどこへやら。2月15日,鶴岡八幡宮の「班雪」は正午までには夢幻と化したとか。
どうやら湘南鎌倉では,これが今年最初で最後の積雪になりそうです。
今回の場所を鎌倉街道の地図上に赤い印(■)でで示してみます。

●まさしく,鎌倉街道上道の南の端です
2011年02月23日
浅間から善光寺の雪景色

●鎌倉街道上道(善光寺街道)の地図
前回は塩田・別所温泉へと至る,信州の鎌倉街道をご紹介しましたが,今回は長野県内を通るもうひとつの鎌倉街道,すなわち群馬県側から碓氷峠を経て軽井沢から信濃善光寺へと向かう街道沿いの雪景色風景を何枚かご紹介します。
《1.浅間山》
これは中軽井沢からの浅間山。しなの鉄道の駅前は雪の季節にかかわらず浅間山がはっきりと大きく見えるスポットです。
そして,こちらは追分あたりからの浅間山。雪道と家とのコラボレーションが信濃らしい雰囲気でした。
雲間にしるき明方の浅間の煙にまがふは・・・
(宴曲抄より)
「宴曲抄」善光寺修行の部にもこのように記されている浅間とは,きっと山を最もはっきりとよく見渡せる場所なのでしょうか。だとすれば,やはり今の軽井沢の少し西寄り,信濃追分あたりなのかもしれないですね。
そして,しなの鉄道沿いにやや離れた場所へと遡上して,
「宴曲抄」では「坂木」と書かれた今の坂城町です。
《2.坂城神社》
しなの鉄道,坂城駅から参道が伸びている坂城神社の雪景色です。延喜式が編纂された10世紀前半には既にこの地にあった古い神社。「坂城」の地名は,古代の外的を防ぐ砦を意味する「柵城(さくき)」から来ているのだそうですね。
また,中世から近世にかけては,あの村上義清を輩出した信濃源氏「村上氏」の館がこの地にあったのだそうですね。
坂城駅からしなの鉄道で北上し,戸倉,千曲駅を経て屋代駅。
よも佐良科(さらしな)と見ゆるは・・・
と「宴曲抄」でも記された更科郡へと入ります。
姨捨山とは千曲川をはさんで反対側になりますが,上古,更科に君臨した王(きみ)が眠る「王家の谷」ならぬ峰です。
《3.森将軍塚古墳》
山頂に鎮座する全長100メートルに及ぶ前方後円墳は長野県では最大級のもの。4世紀末に築造されたと考えられることから4世紀中頃から後半にこの地を支配した王(きみ)の墳墓だとされていて,副葬品からはヤマト王権とかかわりの深い人物だったと考えられるとのこと。
四道将軍として北陸道から会津へと至った大彦命(オオヒコノミコト),科野(しなの)を言向けてから尾張へ向かったという倭建命(ヤマトタケルノミコト)
記紀にも出てくる,初期ヤマト王権のふたりの英雄の名が頭をよきるけれど,いずれも伝説色の強いものなので,何とも言えません。
ともあれ,山上の古墳も麓に復元された科野ムラも,晴れていれば更級の山々が見渡せる絶景のおススメスポットです。
ここまで来れば,善光寺のある長野市内まではあと一息。再びしなの鉄道屋代駅から長野行きに乗車して,20分ほどで篠ノ井も犀川の渡りも越えて終点の長野駅に到着して,“彼所に詣(まうで)”ることができますよ。
《4.信濃善光寺》
まさしく,早起きは三文の徳。
朝早くに善光寺にまで詣でてみれば,雪の中での御朝事にも巡り合うことができます。
それでも遅参でして,この日は山門の外側から大僧正様のお帰りを遠巻きに見送るのみでしたが,次来るときにはもっと早起きしてお数珠頂戴をきちんといただけたらと思います。
以上,浅間から善光寺の雪景色。
写真で紹介した1から4の場所を鎌倉街道上道の地図上に赤い印(■)で示すと以下のとおりです。
昨年までに撮り貯めていた写真,雪景色のカットは限りあるので,今回,大変に大雑把なレポートとなってしまいました。
(参考文献)
・「宴曲抄」善光寺修行 (鎌倉極楽寺の僧,明空 作)
2011年02月14日
雪の鎌倉みち(3) ~別所温泉郷
●上田電鉄別所線,別所温泉駅にて
15時,別所温泉
下之郷あたりから鎌倉道(鎌倉街道上道)を,雪の中をほぼ3時間歩いてようやくまみえました。
〝ようこそ,別所温泉へ〝
案内の看板を上目に,駅から続くゆるい傾斜を上がって温泉郷へと向かいます。まもなく夕のころに差し掛かる時刻だったからか,それほど人の姿はありませんでした。
●積雪の将軍塚
傾斜の中ほど,将軍塚です。この塚は桜の季節,紅葉ともに意外と見どころですが,このたび雪景色もなかなかのものでした。これが平維茂の塚であるという話はここの以前の記事で紹介したとおりですが,8世紀ごろの円墳ではないかという説もあるそうです。
将軍塚で道を右手に折れて,ずっと行き当たりまで向かいます。

●将軍塚から常楽寺へと向かう道路(参道)
ここ別所の温泉が古くから知られ,また信濃国府に近かったこともあって律令時代から大宮人の保養地(別所)として開発が進み,鎌倉時代には,塩田北条氏の手厚い庇護を受けて仏教文化が隆盛したことは,以前の記事でもお話ししたとおりです。
以下に写真を紹介する常楽寺には,常楽寺宝物館という施設があり一般公開(有料)もされています。ここには,常楽寺に伝わる様々なものが展示保管されています。
●雪の常楽寺本堂
常楽寺は西暦825年,慈覚大師によって創建されたとされています。寺院の長い歴史を物語るかのように,先述の宝物館には,古くは奈良時代のものから鎌倉時代,そして近世近代のものまであらゆる時代の文物が陳列されています。
●雪帽子に雪マフラー(常楽寺境内にて)
中でも,鎌倉街道に関係が深いものは北条国時の木像。高さ20センチ前後くらいの小ぶりな木彫り物で,北条国時が鎌倉への出陣前に甲冑姿を自らの手で彫り刻んだものだと伝えられています。何かを覚悟し,悟りきったような表情に見えました。

北条国時は,その名が示す通り,鎌倉幕府執権の北条氏の一族。極楽寺流北条氏の流れをくみ,塩田城に居を定めた父,北条義政の跡を継いで,1281年に塩田北条氏2代目の当主となります。以降50年余の長きにわたって信濃を居城としつつ幕府の要職を務め,また信濃守護としても「信州の学海」と呼ばれるまでに,この塩田に仏教文化の一大中心地を築き上げました。
●鎌倉時代のものとされる石塔群(常楽寺境内にて)
その国時に転機が訪れたのが,1333年5月のこと。父の跡を継いだころには青年だった北条国時も既に老境に達していました。世情のせいか晩年になってから出陣することが多かった,北条国時ですが,「新田義貞,大軍で鎌倉街道を南下」の急報を受けて,子の北条俊時ら一族郎党とともに鎌倉街道(もちろん上道)を一路,鎌倉へと南下。二度と信濃へ戻ることはありませんでした。
1333年5月22日。幕府軍の一翼としての奮戦もむなしく新田義貞率いる討幕軍に敗れ,北条国時・俊時の父子は鎌倉の東勝寺にて北条得宗家とともに自害しました。
本堂の裏手へと続く,常楽寺の境内を散策しました。一部,墓地になっていますが,多数の石塔が沿道に安置されています。すべてこの地から出土したものだそうで,鎌倉時代のものだといいます。
●安楽寺の八角塔
常楽寺を後にして,ややくだり気味な勾配の石畳を進むと,安楽寺に出ます。雪の中,まばらに人が訪れていました。
ここ安楽寺は現在は曹洞宗ですが,もともとは臨済宗の寺院。鎌倉時代には,建長寺(鎌倉)と並ぶ禅寺として,信州学海の中心地として隆盛したそうです。
そして,写真の八角塔(八角三重塔,最下層は初重裳階というもの)は中国の宋王朝時代の建築様式をした仏塔。言い伝えでは塩田北条氏の初代,北条義政による建立であるといわれていましたが,実際にはその子,北条国時によって建立されたものであるとのことです。
かつて,別所温泉には,安楽寺・常楽寺・長楽寺の3寺院あり,「別所三楽寺」と呼ばれていたそうです。安楽寺と常楽寺は現存するわけですが,長楽寺は江戸時代の中頃に焼失して現存しません。ただ,現在の北向観音堂のすぐそばあたりが長楽寺の境内跡地であったとのこと。
●雪の北向観音堂
最後に辿り着いたのが,北向観音堂です。別所温泉に到着したときには止んでいた雪がまた降り始めてきました。時刻は既に16時をまわり日没の時間帯ですが,厚い積雪のためか,翳りはさほどではありませんでした。
こちらも常楽寺と同様,825年に慈覚大師によって創建されたとされています。伝説によれば,この地に顕現した観音菩薩を慈覚大師が安置するためにお堂を建てたのが北向観音堂の始まりであり,同時に別院として建立されたのが先出の常楽寺の始まりだとのことです。
突如,境内の愛染堂の鐘がひとりでに鳴り響きました。
ゴーン, ゴーン, ゴーン, ゴーン, ゴーーン・・・・
間をおいて5回鳴り響きます。17時ともなると,雪景色も次第に暗くなり境内のあかりも点灯してきました。洗面具を手に境内を横切っていく地元の人,遅く来た観光客の一行・・・
シャッターが下りて暗くなった参道の土産屋通り。雪降る中,ちらほらと人が行き交う中,自分もまた今宵のお宿へと歩を進めました。
10キロくらい歩いたかな・・・さて,温泉風呂が待ってる,熱い夕食も待ってる・・・
そして明日は一気に大移動だ
なお,今回歩いた道のりを鎌倉街道上道の地図上に示すと以下のとおりです。

●拡大図中のピンク色の線が本レポートで,歩いた範囲。別所温泉駅を始点に反時計回りに温泉郷の古刹群をまわりました。
翌朝,雪積もる別所温泉から
もうひとつの信州の鎌倉街道の県境,
軽井沢へとひとっ飛び!!
次回は,善光寺方面への鎌倉街道についてご紹介します。
2011年02月07日
雪の鎌倉みち(2) ~下之郷から手塚・別所温泉駅まで
無限に広がる雪景色・・・
そこには鎌倉へとつづく道が伸びていた
彼の地へ赴く者 この科(しな)の國に来たる者
いざ鎌倉と兵(つはもの)が駆け抜けた古の往還は
今も人々の往来が絶える事はない
●砂原の雪山を背景に生島足島神社の大鳥居
正午過ぎ,下之郷の生島足島神社をスタート地点に,かつての鎌倉街道上道(鎌倉みち)と推定される,長野県道82号別所丸子線(以後,県道82号線)を目指します。
神社から,平井寺トンネル方面へ通じる県道65号線を徒歩で南進すること30分ほどで,県道82号線へと通じる交差点に至りました。富士山地区と古安曽地区の境あたりから,県道82号線に入って一転,西へ,古安曽地区へと歩を進めます。
●古安曽地区にて
次第に雪が激しく降る中を,道路沿いに歩いていくと,左手にこんもりとした森林が見えてきました。近づくと木造の鳥居も確認できます。
安曽神社です。
●雪降りしきる安曽神社の随神門から本殿を見渡します
無人ながらも,木造の立派な随神門と本殿までの長い参道の造形が優美な神社でした。安曽神社の創建年代は不明ですが,西暦860年に信濃国の権守が社殿を再建した(阿曽山舎社)と社伝の記録にあるそうなので,それ以前から祀られていたと考えられます。また,境内には「石上布留社」という境内社もあり,おそらくヤマトの石上神宮から勧請されたものだろうと説明板に書かれてありました。
このあたりには古代のある時期に九州阿蘇地方の部族が入植したそうで,安曽(あそ)の名は阿蘇一族と何か関係あるのかもしれないという話もあります。
さて,この神社は去る2010年の4月に,御柱祭が行われました。次第に強まる風雪の中,そのとき奉納された新しい3本の御柱が本殿脇に建っていました(下写真)。
九州阿蘇との関連も示唆される古安曽地区の安曽神社ですが,祭神は信州の諏訪三神(健南方富命・大己貴命・八坂刀女命)。
その後荒廃した安曽神社ですが,やがて鎌倉に幕府を開いた源頼朝が諸国の寺社を修築する命令を出し,安曽神社もその際に石上布留社の境内社として,再建されたそうです。もっとも,今では逆に石上布留社が安曽神社の境内社となってはいますが。
●道中,このような標識が(古安曽を過ぎたあたり)
鎌倉みちを西へとさらに歩を進めます。雪もさらに激しさを増してきます。南国育ちの自分には雪景色は大変うれしいのだけど,降雪はさすがに寒い。まだ風がないので傘をさすことが出来たことが救いでした。
前途,真っ白な中をひたすらまっすぐ歩いていると,時々,車が行き交い,歩く人とも時折,すれ違います。こんな信州の山間でも雪の中でも,人の往来は絶えることはないのだな,と実感した次第です。
あたり一面真っ白だけど,自分は今,かつての鎌倉街道を歩いている。
時折,姿を見せる「鎌倉道(推定)」の標識がそのことを思い出させてくれます。
延々とまっすぐ続く雪道の左手に見慣れた標識。
“前山寺,左折2000メートル”
いわゆる塩田平「信州の鎌倉」スポットの前山寺をはじめ龍光院や中禅寺などは実は,鎌倉街道の推定ルートよりもやや山手に離れたエリアにあるわけですね。
「このあたり,左に歩いて寄り道すれば泥宮に行き着けるけど,行っとく?」
「いいや,泥宮は昨年,桜の季節に行ったので今回は鎌倉街道をまっすぐそちら別所温泉に向かいます」
ケータイごしの会話に出てきた「泥宮」。前回レポートで紹介した生島足島神社と同様,地面(土)自体を御神体とした祠だそうですね。
生島足島神社からもう5キロくらいは歩いたでしょうか。左手,遠巻きに神社に隣接した塚のようなものが見えてきました。
王子塚古墳かな?
携帯していた地図で確認すると,どうやらそうらしいです。そちらへと向かってみると,結構,大きな墳丘,そして墳丘に寄り添うように王子神社の社殿。境内にある説明板によると,5世紀築造と考えられるホタテ型古墳とのこと。後世に設置されたのだろう石の祠が墳丘のてっぺんに並んでいます。
●王子塚(ホタテ型古墳)の墳丘
鎌倉街道は中世半ばである,鎌倉時代初期に完備された道。なので,中世の産物ということになりますが,生島足島神社といい,安曽神社といい,そして王子塚。古代の史跡が意外と多いですね。このことは信州に限らず,東京,埼玉県や群馬県の鎌倉街道についてもある程度当てはまることです。
中世以降の寺社だけではなく,古代の史跡も鎌倉街道周辺に多いことは,鎌倉幕府が整備した鎌倉街道とはいっても,従来の道を廃して全く新たな道を作ったわけではなく,前時代からある道を可能な限り再利用していることを表しているのかもしれませんね。
激しかった降雪も王子塚あたりでようやく一段落。さらに一本道を歩き,レトロな感じの塩田西小学校を右手に眺めつつ歩き,次第に山間部でカーブする道路をひたすら歩き続けること30分ほど。
そして,最後の上り坂を歩いていくと見えてきました。
別所温泉駅にある旧丸窓列車
これを見るのは数年ぶりです。ただ,別のところへ移管することを検討しているのだそうですね。
15時,別所温泉到着。生島足島神社をスタートし,雪の中を歩いてほぼ3時間でした。次回は別所温泉エリアをレポートします(つづく)
なお,今回歩いた道のりを鎌倉街道上道の地図上に示すと以下のとおりです。

●拡大図中のピンク色の線が本レポートで,歩いた範囲。基本的に長野県道65号線と82号線(これが鎌倉街道と概ね重なる道路)に沿って別所まで歩きました。
2011年02月04日
雪の鎌倉みち(1) ~生島足島神社
前回,鎌倉街道上道について概説しましたので,今回からは,信州における鎌倉街道近辺の旬な風景など,ご紹介していきましょう。
去る1月の雪の日,上田電鉄別所線の下之郷駅に降り立ち,駅すぐ近く,日本総鎮守『生島足島神社』に詣でました。

●この鳥居から先が生島足島神社の境内地
あたり一帯が雪化粧の中,朱色を基調とする神社の建物が一層際立っていました。午前10時,本殿前には普段は常駐していないはずの巫女さんの姿が数人。ほどよい賑わいの境内では,新年の振舞い酒などの催しがありました。

●本殿を囲む神池も真っ白に雪化粧
神池に囲まれた小島の上に建つ本殿の中では,新年の祈祷が随時,催行中。ご神体である大地の上に設置された椅子に腰掛け,神主の祝詞とともに,一同,ご神体である大地に向かって新年の祈願をしています。
生島足島神社は大地そのものがご神体であることは,由来書や神社のホームページを見れば,書いてあることだけど,本殿がある場所は神池に周囲を取り囲まれた小島(「神島」という名です)。今は,立派な橋が渡されている,その「神島」自体がかつてはご神体として崇められていたということでしょう。

●提灯の氷柱が,信濃の凍てつく寒さを物語っています
仏教が伝来する以前の神道(古神道)では,現在見られるような社殿(本殿)などの建物はなく,山,大木(森林),洞窟,滝,巨岩,はたまた海や池に浮かぶ島など自然物がご神体そのもの,あるいは神が宿る聖域として崇拝され,祭祀が行われてきました。
この古代祭祀のスタイルが今に残る例を挙げれば,山そのものをご神体とし本殿(神殿)を持たない大神神社(奈良県)や諏訪上社の本宮。森林をご神体とし,やはり本殿がない諏訪下社。巨岩群をご神体とするため本殿がない磐船神社(大阪府)。
そして,生島足島神社には今は立派な御本殿が「神島」の上に建っているけれど,上古の昔にはやはり本殿はなく,池に浮かぶ島そのものが,穀物を育む「大地の神」として信仰されていたのでしょう。

●古の祭祀遺跡「磐座・磐境」も雪化粧。本殿では祈祷が行われていました
その古代祭祀の痕跡を今に伝えているのが,朱塗りの本殿脇に佇む「磐座・磐境」。1メートル前後のいくつかの大きな岩には今も注連縄が張られています。
古代の科野(しなの)の人々はきっと,池に囲まれた「神島」の脇にある,磐座・磐境を前に祈りの言葉を捧げ供物を奉ったのでしょうね。

●境内から東へ歩くこと約1キロほどに,朱色の巨大な大鳥居がそびえています
そして,時代がかなり下って中世。生島足島神社の南を,鎌倉幕府と信濃を結ぶ大動脈,鎌倉街道上道(鎌倉みち)が通じるようになると,塩田北条氏をはじめ鎌倉武士から篤く信仰されるようになります。特に,13世紀後半には塩田北条氏の2代目当主,北条国時は生島足島神社の社殿を修築しました。また,証拠はないものの,生島足島の境内社である八幡神社(由来等未詳)も,八幡神を篤く信仰していた中世鎌倉武士が勧請,合祀した可能性が高いのでは,ともいわれています。
昼前,境内から東へ1キロほど離れたところにある大鳥居まで歩きました。昨年の4月には,御柱祭で大変賑わった所です。雪山をバックにそびえる巨大な朱塗りの鳥居は大変見ごたえがありました。
この大鳥居のすぐ下から,来た道,生島足島神社の本殿がある方向を眺めると,塩田・別所あたりまで独鈷山も見渡せます。
“無限に広がる雪景色”
生島足島は「信州の鎌倉」のスタート地点。午後には,見渡すエリアを西へと伸びる鎌倉みちへといよいよ歩を進めました(次回につづく)
なお,今回歩いたエリアを鎌倉街道上道の地図上に示すと以下のようになります。

●拡大図中の茶色の線が本レポートで,歩いた範囲
去る1月の雪の日,上田電鉄別所線の下之郷駅に降り立ち,駅すぐ近く,日本総鎮守『生島足島神社』に詣でました。
●この鳥居から先が生島足島神社の境内地
あたり一帯が雪化粧の中,朱色を基調とする神社の建物が一層際立っていました。午前10時,本殿前には普段は常駐していないはずの巫女さんの姿が数人。ほどよい賑わいの境内では,新年の振舞い酒などの催しがありました。
●本殿を囲む神池も真っ白に雪化粧
神池に囲まれた小島の上に建つ本殿の中では,新年の祈祷が随時,催行中。ご神体である大地の上に設置された椅子に腰掛け,神主の祝詞とともに,一同,ご神体である大地に向かって新年の祈願をしています。
生島足島神社は大地そのものがご神体であることは,由来書や神社のホームページを見れば,書いてあることだけど,本殿がある場所は神池に周囲を取り囲まれた小島(「神島」という名です)。今は,立派な橋が渡されている,その「神島」自体がかつてはご神体として崇められていたということでしょう。
●提灯の氷柱が,信濃の凍てつく寒さを物語っています
仏教が伝来する以前の神道(古神道)では,現在見られるような社殿(本殿)などの建物はなく,山,大木(森林),洞窟,滝,巨岩,はたまた海や池に浮かぶ島など自然物がご神体そのもの,あるいは神が宿る聖域として崇拝され,祭祀が行われてきました。
この古代祭祀のスタイルが今に残る例を挙げれば,山そのものをご神体とし本殿(神殿)を持たない大神神社(奈良県)や諏訪上社の本宮。森林をご神体とし,やはり本殿がない諏訪下社。巨岩群をご神体とするため本殿がない磐船神社(大阪府)。
そして,生島足島神社には今は立派な御本殿が「神島」の上に建っているけれど,上古の昔にはやはり本殿はなく,池に浮かぶ島そのものが,穀物を育む「大地の神」として信仰されていたのでしょう。
●古の祭祀遺跡「磐座・磐境」も雪化粧。本殿では祈祷が行われていました
その古代祭祀の痕跡を今に伝えているのが,朱塗りの本殿脇に佇む「磐座・磐境」。1メートル前後のいくつかの大きな岩には今も注連縄が張られています。
古代の科野(しなの)の人々はきっと,池に囲まれた「神島」の脇にある,磐座・磐境を前に祈りの言葉を捧げ供物を奉ったのでしょうね。
●境内から東へ歩くこと約1キロほどに,朱色の巨大な大鳥居がそびえています
そして,時代がかなり下って中世。生島足島神社の南を,鎌倉幕府と信濃を結ぶ大動脈,鎌倉街道上道(鎌倉みち)が通じるようになると,塩田北条氏をはじめ鎌倉武士から篤く信仰されるようになります。特に,13世紀後半には塩田北条氏の2代目当主,北条国時は生島足島神社の社殿を修築しました。また,証拠はないものの,生島足島の境内社である八幡神社(由来等未詳)も,八幡神を篤く信仰していた中世鎌倉武士が勧請,合祀した可能性が高いのでは,ともいわれています。
昼前,境内から東へ1キロほど離れたところにある大鳥居まで歩きました。昨年の4月には,御柱祭で大変賑わった所です。雪山をバックにそびえる巨大な朱塗りの鳥居は大変見ごたえがありました。
この大鳥居のすぐ下から,来た道,生島足島神社の本殿がある方向を眺めると,塩田・別所あたりまで独鈷山も見渡せます。
“無限に広がる雪景色”
生島足島は「信州の鎌倉」のスタート地点。午後には,見渡すエリアを西へと伸びる鎌倉みちへといよいよ歩を進めました(次回につづく)
なお,今回歩いたエリアを鎌倉街道上道の地図上に示すと以下のようになります。

●拡大図中の茶色の線が本レポートで,歩いた範囲
2011年01月31日
【概説2】鎌倉街道上道のあらまし
前回に続いて今回は概説2ということで,信州と関わりの深い鎌倉街道上道を,起点(終点)の鎌倉から順に見ていきましょう。

【1.関東平野の鎌倉街道上道】


鎌倉から碓氷峠(松井田町)に至るまでの鎌倉街道上道のルートは,鎌倉時代後期の「宴曲抄」に歌いこまれているところです。赤字の部分が,街道上の地名だと解釈されている箇所。そして,青字が該当する現在地名を当てたものです。結構,詳細に語られています。
“吹送由井の浜(鎌倉市由比ヶ浜)音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山(鎌倉市常盤)、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢(むら)、小萱(おかや)(藤沢市村岡)刈萱露ながら、沢(藤沢市柄沢)辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれにしといひし人の、干飯た(横浜戸塚区飯田)うべし古も、かかりし井手の沢(町田市本町田)辺かとよ、小山田の里(町田市小野路町)にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関(多摩市関戸)と今ぞしる、おもひきや、我につれなき人をこひ、かく程(国分寺市恋ヶ窪)袖をぬらすべしとは、久米河(東村山市)の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野(埼玉県所沢市)はかぎりもしらずはてもなし、千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、光も細き暁、尋ても見ばや堀難(狭山市堀兼)の出難かりし瑞籬(狭山市三ツ木)の、久跡や是ならん、あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川(狭山市の入間川)、あの此里にいざ又とまらば、誰にか早(苦林,埼玉県毛呂山町)敷妙の、枕ならべんとおもへども、婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵(嵐山町大蔵)に槻河の、流れもはやく比企野が原(嵐山町菅谷)、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨、 打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる浪の荒河(寄居町の荒川)行過て、下にながるる見馴川(寄居町の小山川)、見なれぬ渡をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、是やは児玉(埼玉県児玉町)玉鉾の、道行人に事とわん、者の武の弓影にさはぐ雉が岡、矢竝にみゆる鏑河(群馬県藤岡町の鏑川)、今宵はさても山な(高崎市山名町)越ぞ、いざ倉賀野(高崎市倉賀野町)にととまらん、夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出(高崎市石原町)や、豊岡かけて見わたせば、ふみとどろかす、乱橋の、しどろに違板鼻(安中市板鼻)、誰松井田(松井田町・碓氷峠)にとまるらん、”
【2.信濃の鎌倉街道上道(碓氷峠~善光寺)】
これより先,すなわち群馬県から長野県へと続く経路について,同じ「宴曲抄」はさらに以下のように続きます。


(「宴曲抄」善光寺修行つづき)
“薄紅の臼井山(碓氷峠;長野と群馬の県境)、思ふどちは道行ぶりもうれしくて、いかで別れむ離山(軽井沢町の離山)の、其名もつらし過なばや、雲間にしるき明方の、浅間(浅間山がよく見える信濃追分あたりか?)の煙にまがふは、高根に残る横雲の、跡よりしらむしのの目(小諸市東雲区)、日影(小諸市御影新田か?)のどけく莫の松原(地名か?)はるばると、へだつる方や葛原(地名か?)の、里より遠の程ならん、深はしらず桜井(地名か?)に、花の白浪散かかり、かすめる空ぞおぼつかなき、望月(佐久市望月宿)の駒牽かくる布引(小諸市の布引観音寺付近)の、山のそがいに見ゆるは、海野(東御市海野宿)、白鳥(東御市本海野か白鳥神社か)飛鳥(とぶとり)の、飛鳥(あすか)の川にあらねども、岩下(上田市岩下)かはる落合(上田市,現在の中心街付近)や、 淵は瀬になるたぐひならん、富士の根の姿に似たるか塩尻(上田市北部の塩尻)、赤池(今のテクノさかき駅付近か?)、坂木(坂城町,坂城神社付近)柏崎(千曲市柏王か?)、同(おなじ)雲居(くもゐ)の月なれど、何の里もかくばかり、よも佐良科(千曲市更級)と見ゆるは、姨捨山(姨捨,冠着あたり)の秋の夜、筑摩(千曲川)、篠の井(長野市篠ノ井)、西川(長野市南部の犀川)、さまざまの渡(わたり)を越過(こえすぎ)て 、既に彼所(信濃善光寺のこと)に詣(まうで)つつ、”
・・・前半部(鎌倉から群馬県松井田まで)と同じく,地名と思しきところは赤字,そして青字は該当の現地名をカッコ書きしましたが,前半部は公的な解釈を引用したものの,後半部分(長野県:軽井沢~善光寺)については,自分の勉強不足で確かな解釈見本が見つけられませんでした。従って,自分で現在地名との比定をしているので未検証であることをご了解ください。なお,不明箇所は「?」や黄字で示しています。
以上,「宴曲抄」のおかげで,鎌倉街道上道のうち,鎌倉から信濃善光寺へと至る経路は(特に鎌倉から碓氷峠までの道のりはかなり詳細に)比較的わかるのです。ちなみに,この上道の善光寺からはさらに北上して越後,日本海へと抜けていたそうですね。この上道は別所方面への上道と区別するためか「善光寺街道」とも呼ばれています。
【3.信濃の鎌倉街道上道(内山峠~別所温泉)】
一方,関東平野から信濃に入るもうひとつの経路,すなわち現在の群馬県下仁田町から内山峠を経て,長野県佐久市から上田市の別所温泉方面へと至る「鎌倉街道上道」のほうは,文献情報も乏しく,善光寺方面への街道ほどははっきりとしないというのが正直なところのようです。
鎌倉時代後半に塩田北条氏三代が本拠を置いた塩田城(前山寺の裏山),そして部分的に鎌倉街道の痕跡・伝承が残る砂原峠,依田窪,立科芦田や佐久市浅科(その五郎兵衛館付近には鎌倉道の遺構があるらしい)から内山峠を越えて群馬県へと至る経路を結ぶと,だいたい下の絵図面のように推定されるという次第です。


別所温泉あたりは,古代の律令時代から鎌倉時代にかかけて信濃国でも仏教の盛んな地域として,「信州の学海」と呼ばれるほど繁栄した地域。現在は「信州の鎌倉」として屈指の歴史文化スポットになっています。さらに,その別所から先,鎌倉街道は西方面へと延びていたらしいのですが,このあたりの研究があまり進んでいないらしいことと,自分の勉強不足も手伝って,別所から西へ街道がどうなっていたのかという知見はほとんど持ち合わせていません。
ただ,ずっと南西に離れた下諏訪町にも鎌倉街道だという場所があります。鎌倉街道が別所温泉から南へと蛇行して下諏訪に残る鎌倉街道に続いていたのか,それとも,別所温泉までの鎌倉街道上道と下諏訪町の鎌倉街道は別物であるのか?・・・このあたりが不明なので,地図上では,破線と「?」で図示してあります。鎌倉街道が歴史の表舞台に登場する前,律令時代にはこのあたりを「東山道」が通っていました。軽井沢歴史民俗資料館にある展示資料によれば,信濃近隣における,その経路は
飯田-諏訪-松本-青木-上田
だったそうです。すなわち,東山道は諏訪と上田を結びますが,鎌倉街道上道がその東山道を踏襲(経路を変更せずそのまま再利用)していたものであれば,鎌倉から延々,別所温泉あたりにまで伸びていた鎌倉街道はそのまま松本付近を通って下諏訪あたりに出て,そこからさらに今の岐阜県を経て畿内へと通じていた可能性はあるでしょう。

↑諏訪下社春宮(下諏訪町)
ちなみに下諏訪町の鎌倉街道ですが,諏訪下社の秋宮と春宮の間あたりにその比定されている場所があるらしいですね。
以上,前回と今回,2回にわけて,信州とも関わりが深い「鎌倉街道上道」を概観しました。
次回は,その上道から「信州の鎌倉」とも呼ばれる,冬の塩田平から別所温泉を数回に分けてご紹介していきます。
(参照文献等)
・「武蔵府中と鎌倉街道」(府中郷土の森博物館出版)
・「宴曲抄」(鎌倉極楽寺の僧,明空 作)
・軽井沢町歴史民俗資料館展示パネル
・佐久村史
【1.関東平野の鎌倉街道上道】

鎌倉から碓氷峠(松井田町)に至るまでの鎌倉街道上道のルートは,鎌倉時代後期の「宴曲抄」に歌いこまれているところです。赤字の部分が,街道上の地名だと解釈されている箇所。そして,青字が該当する現在地名を当てたものです。結構,詳細に語られています。
“吹送由井の浜(鎌倉市由比ヶ浜)音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山(鎌倉市常盤)、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢(むら)、小萱(おかや)(藤沢市村岡)刈萱露ながら、沢(藤沢市柄沢)辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれにしといひし人の、干飯た(横浜戸塚区飯田)うべし古も、かかりし井手の沢(町田市本町田)辺かとよ、小山田の里(町田市小野路町)にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関(多摩市関戸)と今ぞしる、おもひきや、我につれなき人をこひ、かく程(国分寺市恋ヶ窪)袖をぬらすべしとは、久米河(東村山市)の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野(埼玉県所沢市)はかぎりもしらずはてもなし、千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、光も細き暁、尋ても見ばや堀難(狭山市堀兼)の出難かりし瑞籬(狭山市三ツ木)の、久跡や是ならん、あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川(狭山市の入間川)、あの此里にいざ又とまらば、誰にか早(苦林,埼玉県毛呂山町)敷妙の、枕ならべんとおもへども、婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵(嵐山町大蔵)に槻河の、流れもはやく比企野が原(嵐山町菅谷)、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨、 打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる浪の荒河(寄居町の荒川)行過て、下にながるる見馴川(寄居町の小山川)、見なれぬ渡をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、是やは児玉(埼玉県児玉町)玉鉾の、道行人に事とわん、者の武の弓影にさはぐ雉が岡、矢竝にみゆる鏑河(群馬県藤岡町の鏑川)、今宵はさても山な(高崎市山名町)越ぞ、いざ倉賀野(高崎市倉賀野町)にととまらん、夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出(高崎市石原町)や、豊岡かけて見わたせば、ふみとどろかす、乱橋の、しどろに違板鼻(安中市板鼻)、誰松井田(松井田町・碓氷峠)にとまるらん、”
(以上,「宴曲抄」善光寺修行の部より引用)
【2.信濃の鎌倉街道上道(碓氷峠~善光寺)】
これより先,すなわち群馬県から長野県へと続く経路について,同じ「宴曲抄」はさらに以下のように続きます。
(「宴曲抄」善光寺修行つづき)
“薄紅の臼井山(碓氷峠;長野と群馬の県境)、思ふどちは道行ぶりもうれしくて、いかで別れむ離山(軽井沢町の離山)の、其名もつらし過なばや、雲間にしるき明方の、浅間(浅間山がよく見える信濃追分あたりか?)の煙にまがふは、高根に残る横雲の、跡よりしらむしのの目(小諸市東雲区)、日影(小諸市御影新田か?)のどけく莫の松原(地名か?)はるばると、へだつる方や葛原(地名か?)の、里より遠の程ならん、深はしらず桜井(地名か?)に、花の白浪散かかり、かすめる空ぞおぼつかなき、望月(佐久市望月宿)の駒牽かくる布引(小諸市の布引観音寺付近)の、山のそがいに見ゆるは、海野(東御市海野宿)、白鳥(東御市本海野か白鳥神社か)飛鳥(とぶとり)の、飛鳥(あすか)の川にあらねども、岩下(上田市岩下)かはる落合(上田市,現在の中心街付近)や、 淵は瀬になるたぐひならん、富士の根の姿に似たるか塩尻(上田市北部の塩尻)、赤池(今のテクノさかき駅付近か?)、坂木(坂城町,坂城神社付近)柏崎(千曲市柏王か?)、同(おなじ)雲居(くもゐ)の月なれど、何の里もかくばかり、よも佐良科(千曲市更級)と見ゆるは、姨捨山(姨捨,冠着あたり)の秋の夜、筑摩(千曲川)、篠の井(長野市篠ノ井)、西川(長野市南部の犀川)、さまざまの渡(わたり)を越過(こえすぎ)て 、既に彼所(信濃善光寺のこと)に詣(まうで)つつ、”
(以上,「宴曲抄」善光寺修行の部より引用)
・・・前半部(鎌倉から群馬県松井田まで)と同じく,地名と思しきところは赤字,そして青字は該当の現地名をカッコ書きしましたが,前半部は公的な解釈を引用したものの,後半部分(長野県:軽井沢~善光寺)については,自分の勉強不足で確かな解釈見本が見つけられませんでした。従って,自分で現在地名との比定をしているので未検証であることをご了解ください。なお,不明箇所は「?」や黄字で示しています。
以上,「宴曲抄」のおかげで,鎌倉街道上道のうち,鎌倉から信濃善光寺へと至る経路は(特に鎌倉から碓氷峠までの道のりはかなり詳細に)比較的わかるのです。ちなみに,この上道の善光寺からはさらに北上して越後,日本海へと抜けていたそうですね。この上道は別所方面への上道と区別するためか「善光寺街道」とも呼ばれています。
【3.信濃の鎌倉街道上道(内山峠~別所温泉)】
一方,関東平野から信濃に入るもうひとつの経路,すなわち現在の群馬県下仁田町から内山峠を経て,長野県佐久市から上田市の別所温泉方面へと至る「鎌倉街道上道」のほうは,文献情報も乏しく,善光寺方面への街道ほどははっきりとしないというのが正直なところのようです。
鎌倉時代後半に塩田北条氏三代が本拠を置いた塩田城(前山寺の裏山),そして部分的に鎌倉街道の痕跡・伝承が残る砂原峠,依田窪,立科芦田や佐久市浅科(その五郎兵衛館付近には鎌倉道の遺構があるらしい)から内山峠を越えて群馬県へと至る経路を結ぶと,だいたい下の絵図面のように推定されるという次第です。

別所温泉あたりは,古代の律令時代から鎌倉時代にかかけて信濃国でも仏教の盛んな地域として,「信州の学海」と呼ばれるほど繁栄した地域。現在は「信州の鎌倉」として屈指の歴史文化スポットになっています。さらに,その別所から先,鎌倉街道は西方面へと延びていたらしいのですが,このあたりの研究があまり進んでいないらしいことと,自分の勉強不足も手伝って,別所から西へ街道がどうなっていたのかという知見はほとんど持ち合わせていません。
ただ,ずっと南西に離れた下諏訪町にも鎌倉街道だという場所があります。鎌倉街道が別所温泉から南へと蛇行して下諏訪に残る鎌倉街道に続いていたのか,それとも,別所温泉までの鎌倉街道上道と下諏訪町の鎌倉街道は別物であるのか?・・・このあたりが不明なので,地図上では,破線と「?」で図示してあります。鎌倉街道が歴史の表舞台に登場する前,律令時代にはこのあたりを「東山道」が通っていました。軽井沢歴史民俗資料館にある展示資料によれば,信濃近隣における,その経路は
飯田-諏訪-松本-青木-上田
だったそうです。すなわち,東山道は諏訪と上田を結びますが,鎌倉街道上道がその東山道を踏襲(経路を変更せずそのまま再利用)していたものであれば,鎌倉から延々,別所温泉あたりにまで伸びていた鎌倉街道はそのまま松本付近を通って下諏訪あたりに出て,そこからさらに今の岐阜県を経て畿内へと通じていた可能性はあるでしょう。
↑諏訪下社春宮(下諏訪町)
ちなみに下諏訪町の鎌倉街道ですが,諏訪下社の秋宮と春宮の間あたりにその比定されている場所があるらしいですね。
以上,前回と今回,2回にわけて,信州とも関わりが深い「鎌倉街道上道」を概観しました。
次回は,その上道から「信州の鎌倉」とも呼ばれる,冬の塩田平から別所温泉を数回に分けてご紹介していきます。
(参照文献等)
・「武蔵府中と鎌倉街道」(府中郷土の森博物館出版)
・「宴曲抄」(鎌倉極楽寺の僧,明空 作)
・軽井沢町歴史民俗資料館展示パネル
・佐久村史
2011年01月30日
【概説1】鎌倉街道って何?
今回は,鎌倉街道について少し説明したいと思います。
「鎌倉街道」というのは,その名の通り鎌倉と各地方を結んだ道路のことです。鎌倉に幕府が開かれると,この新たな武家の都を起点にしていくつもの街道が整備されました。


●武家の古都鎌倉の象徴,鶴岡八幡宮。ありし日の大銀杏黄葉の風景
旧来の街道をそのまま踏襲することもあれば,幕府の創設に伴い,ほとんど新たに主要幹道として整備されたものもありました。特に,鎌倉から関東平野を抜けて各地へと向かう下記の3街道は鎌倉の開都とともに地方の支道から,新たな都と各地を結ぶ主要幹道として一気に重要度が高まりました。
すべての道は鎌倉に通ず
主に軍事用の道路,さらには経済交流にも使われたこれらの道はすべて鎌倉に通じており,「かまくらみち」,「鎌倉往還」あるいは「鎌倉街道」などと呼ばれました。
①鎌倉街道上道;鎌倉から上州(高崎)を経て信濃へと向かう道
②鎌倉街道中道;鎌倉から下野(宇都宮)を経て奥州へと向かう道
③鎌倉街道下道;鎌倉から東京湾沿いに下総,常陸へと向かう道
とりわけ①の鎌倉街道上道は上記の主要3街道のうちでも日本の中世史で様々に重要な出来事の舞台にもなった街道です。

●鎌倉から関東平野を経て信濃国へ至る上道の推定経路(クリックでもっと大きな図面が表示されます)
赤の部分は鎌倉幕府近郊の絶対防衛圏内,緑は現在の関東圏,そして青が現在の長野県に属する部分です。
この鎌倉街道上道は上州を経て信州へと続くのですが,今の群馬県の藤岡あたりで分岐して,ひとつは西へ下仁田(群馬県)あたりから,県境の内山峠を経て信州(佐久市)へ,さらに上田市の塩田平・別所温泉へと至るルートと,もうひとつは北上して碓氷峠を越えて,ほぼ現在の「しなの鉄道」沿いの経路をたどって善光寺へと至るルートに分かれていたようです。
以上,今回は“鎌倉街道とは何ぞや”というあたりを簡単にご紹介しました。上記の上道・中道・下道の3幹道以外にも,中小の支道が大動脈から分かれる毛細血管のように全国各地に網目のように張り巡らされており,これらの遺構が鎌倉街道伝承地として現存している例もあります。
このブログでは主に①,鎌倉から信州へと至る「鎌倉街道上道」をテーマに扱いますので,次回は「鎌倉街道上道」にスポットを当ててもう少し概説しましょう。


●積雪の信州。別所温泉の安楽寺八角三重塔(左)と信濃善光寺(右)
「鎌倉街道」というのは,その名の通り鎌倉と各地方を結んだ道路のことです。鎌倉に幕府が開かれると,この新たな武家の都を起点にしていくつもの街道が整備されました。


●武家の古都鎌倉の象徴,鶴岡八幡宮。ありし日の大銀杏黄葉の風景
旧来の街道をそのまま踏襲することもあれば,幕府の創設に伴い,ほとんど新たに主要幹道として整備されたものもありました。特に,鎌倉から関東平野を抜けて各地へと向かう下記の3街道は鎌倉の開都とともに地方の支道から,新たな都と各地を結ぶ主要幹道として一気に重要度が高まりました。
すべての道は鎌倉に通ず
主に軍事用の道路,さらには経済交流にも使われたこれらの道はすべて鎌倉に通じており,「かまくらみち」,「鎌倉往還」あるいは「鎌倉街道」などと呼ばれました。
①鎌倉街道上道;鎌倉から上州(高崎)を経て信濃へと向かう道
②鎌倉街道中道;鎌倉から下野(宇都宮)を経て奥州へと向かう道
③鎌倉街道下道;鎌倉から東京湾沿いに下総,常陸へと向かう道
とりわけ①の鎌倉街道上道は上記の主要3街道のうちでも日本の中世史で様々に重要な出来事の舞台にもなった街道です。
●鎌倉から関東平野を経て信濃国へ至る上道の推定経路(クリックでもっと大きな図面が表示されます)
赤の部分は鎌倉幕府近郊の絶対防衛圏内,緑は現在の関東圏,そして青が現在の長野県に属する部分です。
この鎌倉街道上道は上州を経て信州へと続くのですが,今の群馬県の藤岡あたりで分岐して,ひとつは西へ下仁田(群馬県)あたりから,県境の内山峠を経て信州(佐久市)へ,さらに上田市の塩田平・別所温泉へと至るルートと,もうひとつは北上して碓氷峠を越えて,ほぼ現在の「しなの鉄道」沿いの経路をたどって善光寺へと至るルートに分かれていたようです。
以上,今回は“鎌倉街道とは何ぞや”というあたりを簡単にご紹介しました。上記の上道・中道・下道の3幹道以外にも,中小の支道が大動脈から分かれる毛細血管のように全国各地に網目のように張り巡らされており,これらの遺構が鎌倉街道伝承地として現存している例もあります。
このブログでは主に①,鎌倉から信州へと至る「鎌倉街道上道」をテーマに扱いますので,次回は「鎌倉街道上道」にスポットを当ててもう少し概説しましょう。
●積雪の信州。別所温泉の安楽寺八角三重塔(左)と信濃善光寺(右)
2011年01月25日
諏訪春宮の筒粥神事(後編) ~粥占の結果は~
前編からの続きです。1月14日の夜から炊き始めていた筒粥は,明くる15日の午前5時に結果占いが行われました。
【2011年1月15日 筒粥のト占】

●筒粥が供えられている拝幣殿前に整列する神職
午前5時に,下社春宮の境内に到着すると,地元の報道陣を中心に十数名程度がすでに待ち構えていました。極寒の中,境内の焚き火を囲んで,その時を待ちます。
昨夜の火入れ(炊き出し)の始まりと同様,太鼓を合図に神職中が拝幣殿へと歩を進めます。
出来上がった筒粥44本は既に拝殿前に供えられているようで,お祓いや斎主の祝詞の後,3名の神職(斎主を含む)が座上にあがり,筒粥の開鍵が始まりました(下写真)。

●筒粥が供えられている拝幣殿前に整列する神職
44本の筒粥は,43種類の穀物と「世の中」を占うもの。奥中央の神職が筒粥を一本ずつ割り開いて,結果を口頭で伝えます。そして,左の神職がそれを書き記し,その様子を右の斎主が見守っています。
「里芋,上の上」
「なす,下の下」
・・・
筒粥が一本一本あばかれる度,結果が読み上げられます。一同,寒い中でも,それにじっと聞き入ります。
そして,最後に出ました。
「世の中,三分五厘」
以上,全ての筒粥の結果開鍵が終わりました。おそらく30分程度。
最後に,神職が見物者に結果を記した紙を示して,全ての結果を読み上げ(下写真),今年の筒粥神事も終了となりました。

●占い結果を読み上げる神職
世の中は三分五厘。おそらく「十」が満点だろうから,いささか厳しい結果が出たといえるかも。確かに,大卒者の就職内定率が過去最低レベルだったり,数年来の景気の閉塞感,周辺諸国の日本に対する外圧,いろいろ出てくる新たな社会問題・・・
なるほど,こういった問題はちょっとや,そっとじゃ改善しそうにないですしね。それに,ここ諏訪大社の筒粥神事は,聞くところではよく的中するので,七不思議のひとつに数えられているのだとか。昼間に再び春宮を訪れて,筒粥ト占の結果一覧をいただきましたが,ざっと眺めてみると43種類の穀物も全体的に上の部類が少なく,中や下がやや多めな感が。
温暖化が進めば,全体としての穀物の収穫量は減少に向かうともいいますし・・・
不景気な話はやめておきましょう。もっとも,自分は過去のト占結果を知らないわけですし,絶対値はともかく,運気が上向きか下向きかという相対的なファクターはそれらとの比較対照がないと何とも言いかねるところでしょうから。

●開鍵が済んだ筒粥
ところで,この筒粥神事の由来なりについていくぶん調べてみました。
ここ諏訪下社の筒粥神事はいつごろから行われているものなのか定かな情報は確認できませんでしたが,かつては諏訪上社でも行われていたそうです(現在はなくなっている)。また,諏訪大社に限らず,全国各地の神社で,小正月あたりに広く行われているようです。
歴史が古い例を挙げれば,師岡熊野神社(横浜市)というところでは,西暦949年から行われているとされていますし,恩智神社(大阪八尾市)の粥占神事は千年以上前,また淡路島の伊弉諾神宮で行われる粥占祭というものは1200~1300年前に始まったとされていたりします。その他,数百年前に始まったという事例も結構あるようでした。
諏訪のように筒に入る粥の状態で占うだとか,粥を放置してカビの生え具合で占う(北九州に多い)など,いくらか方法に差異があるものの,その年の穀物の出来高の吉凶を粥を用いて占うというのが基本とする「粥占(かゆうら)」という年占いです。その目的や手法などから,明らかに農耕が始まって以降のト占なのでしょうが,いつの時代から行われていたのかは定かではありません。大陸由来の行事という情報もあったりしますが,延喜式が成立した古代末期には,神事として諏訪大社で見たような手順がほぼ確立していたそうです。
余談ですが,古代から行われていた筒粥神事(粥占)ですが,同じく古代からのト占である「太占(ふとまに)」とは,由来的には一線を画する存在だったようです。
さて,1月15日の早朝,筒粥神事が一部始終終わった頃には,空も明るみ始めていました。筒粥の歴史を調べたとて,諏訪の筒粥神事がなぜ正確なのかはわかるべくもありません。
ただ,わかるのは
大事なもの,必要なものだったから絶えることなくずっと続いてきたということ
午前6時半,春宮から来た道を再び戻って,宿泊先に戻り再び床に就いた自分でした。
2012年の諏訪大社筒粥の占い結果はこちら
【2011年1月15日 筒粥のト占】
●筒粥が供えられている拝幣殿前に整列する神職
午前5時に,下社春宮の境内に到着すると,地元の報道陣を中心に十数名程度がすでに待ち構えていました。極寒の中,境内の焚き火を囲んで,その時を待ちます。
昨夜の火入れ(炊き出し)の始まりと同様,太鼓を合図に神職中が拝幣殿へと歩を進めます。
出来上がった筒粥44本は既に拝殿前に供えられているようで,お祓いや斎主の祝詞の後,3名の神職(斎主を含む)が座上にあがり,筒粥の開鍵が始まりました(下写真)。
●筒粥が供えられている拝幣殿前に整列する神職
44本の筒粥は,43種類の穀物と「世の中」を占うもの。奥中央の神職が筒粥を一本ずつ割り開いて,結果を口頭で伝えます。そして,左の神職がそれを書き記し,その様子を右の斎主が見守っています。
「里芋,上の上」
「なす,下の下」
・・・
筒粥が一本一本あばかれる度,結果が読み上げられます。一同,寒い中でも,それにじっと聞き入ります。
そして,最後に出ました。
「世の中,三分五厘」
以上,全ての筒粥の結果開鍵が終わりました。おそらく30分程度。
最後に,神職が見物者に結果を記した紙を示して,全ての結果を読み上げ(下写真),今年の筒粥神事も終了となりました。
●占い結果を読み上げる神職
世の中は三分五厘。おそらく「十」が満点だろうから,いささか厳しい結果が出たといえるかも。確かに,大卒者の就職内定率が過去最低レベルだったり,数年来の景気の閉塞感,周辺諸国の日本に対する外圧,いろいろ出てくる新たな社会問題・・・
なるほど,こういった問題はちょっとや,そっとじゃ改善しそうにないですしね。それに,ここ諏訪大社の筒粥神事は,聞くところではよく的中するので,七不思議のひとつに数えられているのだとか。昼間に再び春宮を訪れて,筒粥ト占の結果一覧をいただきましたが,ざっと眺めてみると43種類の穀物も全体的に上の部類が少なく,中や下がやや多めな感が。
温暖化が進めば,全体としての穀物の収穫量は減少に向かうともいいますし・・・
不景気な話はやめておきましょう。もっとも,自分は過去のト占結果を知らないわけですし,絶対値はともかく,運気が上向きか下向きかという相対的なファクターはそれらとの比較対照がないと何とも言いかねるところでしょうから。
●開鍵が済んだ筒粥
ところで,この筒粥神事の由来なりについていくぶん調べてみました。
ここ諏訪下社の筒粥神事はいつごろから行われているものなのか定かな情報は確認できませんでしたが,かつては諏訪上社でも行われていたそうです(現在はなくなっている)。また,諏訪大社に限らず,全国各地の神社で,小正月あたりに広く行われているようです。
歴史が古い例を挙げれば,師岡熊野神社(横浜市)というところでは,西暦949年から行われているとされていますし,恩智神社(大阪八尾市)の粥占神事は千年以上前,また淡路島の伊弉諾神宮で行われる粥占祭というものは1200~1300年前に始まったとされていたりします。その他,数百年前に始まったという事例も結構あるようでした。
諏訪のように筒に入る粥の状態で占うだとか,粥を放置してカビの生え具合で占う(北九州に多い)など,いくらか方法に差異があるものの,その年の穀物の出来高の吉凶を粥を用いて占うというのが基本とする「粥占(かゆうら)」という年占いです。その目的や手法などから,明らかに農耕が始まって以降のト占なのでしょうが,いつの時代から行われていたのかは定かではありません。大陸由来の行事という情報もあったりしますが,延喜式が成立した古代末期には,神事として諏訪大社で見たような手順がほぼ確立していたそうです。
余談ですが,古代から行われていた筒粥神事(粥占)ですが,同じく古代からのト占である「太占(ふとまに)」とは,由来的には一線を画する存在だったようです。
さて,1月15日の早朝,筒粥神事が一部始終終わった頃には,空も明るみ始めていました。筒粥の歴史を調べたとて,諏訪の筒粥神事がなぜ正確なのかはわかるべくもありません。
ただ,わかるのは
大事なもの,必要なものだったから絶えることなくずっと続いてきたということ
午前6時半,春宮から来た道を再び戻って,宿泊先に戻り再び床に就いた自分でした。
(諏訪の筒粥神事 / おわり)
2012年の諏訪大社筒粥の占い結果はこちら
2011年01月24日
諏訪春宮の筒粥神事(前編) ~慌てず,急いで,確実に~
高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て
八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて
我皇御孫命は豊葦原瑞穂国を 安国と平けく知食せと事依さし奉りき
(大祓詞より冒頭抜粋)
大変,久しぶりの更新になります。
冒頭の写真は,去る1月14日に行われた諏訪下社の春宮で執り行われた「筒粥神事」。14日の午後8時から大釜に小豆粥と葦の束を入れて炊き,翌未明に粥の出来上がり状態(葦の茎に入る粥の状態をみるらしい)を見て,今年一杯の穀物と世相の吉凶を占う,諏訪下社では重要な神事です。
ところで,下諏訪にもかつて鎌倉街道が通じていたそうで,諏訪下社の秋宮と春宮の間あたりには鎌倉街道だと伝わる古道があるらしいですね。
今回,信州の鎌倉街道沿いに伝わる伝統神事ということで,2011年1月14日の夜及び15日未明にかけて諏訪春宮の筒粥神事を見学してきましたので,写真とともに順にご紹介します。
【2011年1月14日 筒粥の炊き始め】
1月14日の午後8時前,下諏訪の春宮に至りました。気温は既に氷点下。境内には地元のマスコミと近所からと思しき人がパラパラと訪れている中,神事の始まりを告げる太鼓が響き渡りました。
ドン, ドン, ドン・・・
●社務所を出立し拝幣殿へと向かう神職の行列
太鼓の音に続いて,砂利を踏みしめる足音とともに暗がりの中から,白い浄衣の神職さんが8名ばかり。行列して石畳を辿って,春宮の拝幣殿前へ。そして整列しました。
そして,斎主が拝幣殿に上がり,一通りの神事を行うこと約30分。寒い中,ずっとその様子を眺めていました。
●拝幣殿前を横切る神職の行列
拝幣殿での神事の後,神職中はいよいよ筒粥殿へと向かいます。その手には,拝幣殿に来る前までにはなかった,三方(鏡餅などを乗せる木台のようなもの)を神職が手にしています。おそらく,ここにお粥の具材(米,小豆)と葦茎の束44本が載っていたのだと思います。
●神職が手にする三方
●筒粥殿へと入る神職中。いよいよ筒粥の炊き込みが始まります
神楽殿の脇から筒粥殿へと入る神職中を見守っていましたが,8名全員が建物の中に入るや即ち,大きなビデオカメラや機材を手にした人,一眼レフを手にした人が一斉に後を追って,筒粥殿の入り口に人垣を作りました。
「あとでいくらでも傍で見学できるようになるから。君はそのとき‘慌てず・急いで・確実に’やれるよう今のうちにフィルム替えなど準備しておきたまえ」
同行してくれていた,ある程度心得ている関東の神職氏のアドバイスにしたがって,ここは‘慌てず’待機。境内の焚き火で暖を取っていると,筒粥殿でから大祓詞を唱和する声が聞こえてきました。
必要な取材を完了したのか,地元のマスコミの人たちなどは10分ほどで人垣を解いて筒粥殿から離れていき,もともと見物する人も少なかったので(一般の人々も身体は大変寒そうに顔は満悦げな表情で早々と帰っていきました),予見されたとおり苦労せず,すぐ目の前で筒粥神事の様子を見学することができました。
冒頭の写真と下↓の写真が,大釜で粥を炊いている様子。
●粥と葦を炊く大釜を囲む神職中
写真のように8人の神職が大釜のまわりを輪になって,ひたすら大祓詞を唱えていました。
「こうやって大祓詞を始終唱える。これを10回繰り返して今宵の神事はとりあえず終了するから。後は神職が交代で翌朝5時まで火の番をするのだよ。大祓詞は君も鶴岡八幡宮での大祓式で唱えたことがあるはずだから知っているだろ?」
同行の関東の神職氏がそう教えてくれました。そして,その粥炊きの火は古式と同様の方法で火起こしされた火で炊いていることも。
「昔,私が見たある年にはなかなか火が着かなくて,かれこれ1時間以上も寒い中,皆待ち続けたよ」
年によっては粥を炊く火を起こすのに苦労することもあるそうで,今回はものの10分もしないうちに点火できたそうです。
大釜のは炎が時々ゆらめいています。その大釜の中には小豆と米,そして葦茎の束が一緒に炊かれていてます。それぞれ43種類の穀物と世相を占うため,葦茎(葦の筒)は合計44本。その筒の中に入る粥の状態で各作物と世相の吉凶を,翌早朝に判定します。
黒い釜を囲み,建物いっぱいに輪になった神職が大祓詞を何度も唱和する様子は厳粛そのもの。寒い夜,諏訪にまで出向いてきた甲斐はあったというものでした。
なお,冒頭に大文字のところにある「三角矢印」のマークをクリックして,流れる祝詞のような音声がその大祓詞(フルバージョン)です。
「雰囲気に浸るのもいいけれど,ちゃんと写真もとっておかないと。会社勤めの君にとっては,そうそう見られる代物でもないだろ」
素人ゆえに夜の撮影は失敗が多い自分のことなので,1枚シャッターを切っただけではどうしようもないのは明白。もう10回目(最後)の唱和に入っています。そこは‘急いで’‘確実に’フィルムに焼き付けることが出来ないと,撮影に失敗すれば一生に一度の機会を逃すことにもなりかねないと速やかに何枚もシャッターを切りました。
「慌てず,急いで,確実に! な。」
横から神職氏の小声が入ります。
大祓詞を終えた神職中が筒粥殿を後にしました。境内はもはや自分たちと後から見に来た人たちが数人。
「さあ,温泉が待ってる。皆も待ってる。」
午後9時半,真っ暗な春宮の境内を後にしました。
(筒粥神事後編へ続く)
2010年11月02日
今が旬,紅葉の別所温泉郷~おまけ写真
紅葉の別所温泉郷,前号で使わずに余った写真です。

北向観音の愛染桂と鐘楼

安楽寺裏山への参道

安楽寺八角塔

常楽寺の石造多宝塔へと至る道は黄葉のじゅうたん

日陰ではもみぢが凍てついていました~常楽寺境内にて
別所温泉の歴史を学習しつつ,北向観音,安楽寺,常楽寺と歩いて回ったあとは,
温泉でリフレッシュ


北向観音の愛染桂と鐘楼

安楽寺裏山への参道

安楽寺八角塔

常楽寺の石造多宝塔へと至る道は黄葉のじゅうたん

日陰ではもみぢが凍てついていました~常楽寺境内にて
別所温泉の歴史を学習しつつ,北向観音,安楽寺,常楽寺と歩いて回ったあとは,
温泉でリフレッシュ


