まずは前山寺。
大イチョウと前山寺三重塔。
茅葺きの本堂と三重塔が印象的な真言宗の寺院です。特に室町初期に着工されたと云われる三重塔は未完成らしいのですが,完成物以上に均整のとれた佇まいに「未完成の完成塔」と呼ばれています。
ほぼ黄色に色づいたイチョウの大木が格調ある塔に趣を添えていました。山々の黄葉も朝日に映えていました。
本堂で名物のくるみおはぎを頂きながら,お寺の人にお話を少し伺うことができました。
前山寺は平安初期(9世紀前半)に創建されました。その後,塩田北条氏をはじめ福沢氏や武田氏の庇護を受けて存続し,現在も真言宗の若手僧侶を育成する場として一役担っているのだそうです。
前山寺の周辺には,西洋風のクラシックカフェや無言館(戦没画学生の遺作ギャラリー)があり,ゆっくりとくつろぐには最適な場所です。また,柿,栗やリンゴなど採れたての果物や野菜を売っている屋台小屋など,信州ならではの風物ですね。
前山寺の次は龍光院へ。
ところどころに道祖神や野仏さまが見守る里山の遊歩道を歩くこと10分ほどで着きました。
ここは塩田北条氏の菩提寺。北条重時(義政の父),塩田北条氏初代の北条義政,2代目の北条国時,そして3代目の北条俊時の親子4代の菩提が弔われています。
この龍光院のすぐそばには義政の墓があります。
龍光院墓地にたたずむ北条義政の墓
北条義政は,1273年に鎌倉幕府8代執権の北条時宗の連署(補佐役)になりました。
1274年には時宗とともに最初の元寇(文永の役)に対処しています。その3年後に連署を辞任して(理由は病のためとされていますが)塩田荘に移り住み,さらに5年の後,40歳でこの地にて亡くなっています。
龍光院は,義政の死後間もなく,息子の国時によって創建されたと云われています。鎌倉の建長寺の末寺として建立されたのだそうです。
ところで,この寺ではあらかじめ予約していれば精進料理が食べられます。自分が2年前に食したときには1500円前後のコースと2000円超のコースの二通りがあったと思います。
塩田の道祖神
遊歩道をさらに進み,塩田の館(観光物産センター)を,左手にさらに歩くと塩田神社と中禅寺に至ります。
塩野神社と中禅寺。
真言宗智山派竜王院延命院中禅寺。現在の本堂(左)と鎌倉時代初期建立とされる薬師堂(右)
まず,塩野神社は鬱蒼とした森の中にある,無人の質素な木造神社(ただし,楼門構造の本殿は重要文化財)ですが,延喜式にもその名が記載されている由緒ある古社なのです。この塩田神社から200メートルほどのところに中禅寺があります。ここもまた,弘法大師によって開かれたと云われる真言宗の古刹。また,藁葺き屋根ながら平安末期の阿弥陀堂形式を踏襲している薬師堂(重要文化財)は中部地方最古の遺構です。
ちなみに,塩野神社と中禅寺を結ぶ道路は,その昔,流鏑馬神事が行われた馬場だったそうで,500メートル先の塩田神社の一の鳥居までまっすぐに伸びた道がその名残をとどめています。
かつては信州での鎌倉文化の中心地。
晩秋の塩田平を走る上田電鉄別所線
今は見渡す限り山と田園が広がる塩田平もかつては塩田北条氏の庇護を受けた前山寺・龍光院・塩田神社・中禅寺などを中心に門前町が広がり,往来する人々で賑わっていたのではないでしょうか。
鎌倉時代には,塩田北条氏の居城は寺院群よりさらに山手の高台にあったのだそうです(塩田城跡)。おそらく戦時に備えて高所に本拠地を置いたのだと思いますが,当時,塩田城の屋敷からは塩田平一帯に広がっていただろう城下町や数々の寺院を一望することができたでしょう。
1333年,新田義貞が鎌倉攻略を目指して進軍。この危機に対し,北条国時・俊時の父子は幕府軍の一員として鎌倉に馳せ参じましたが敢えなく敗れ,鎌倉の東勝寺にて北条得宗家とともに自害しました(鎌倉幕府の滅亡)。
鎌倉市,東勝寺跡すぐそばの北条高時腹切やぐら入口
塩田北条氏が滅びた後も,信濃の新守護になった村上氏の城代,福沢氏が塩田城に拠点を置きましたが,今では前山寺・龍光院・中禅寺などが,のどかな田園地帯の中で往時の仏教都市の面影を伝えています。
ここもまた「つはものどもの夢のあと」なのかな・・・
中禅寺の休み処でお茶と軽食で少し腹ごしらえをした後,黄葉の塩田平を後にし,上田電鉄で別所温泉へと向かいました(次回につづく)