下諏訪,残雪の鎌倉街道ロマンの道

まほろば旅日記編集部

2012年02月17日 03:00


●残雪の諏訪秋宮


前記事からの続きです。

去る1月22日,午前から昼過ぎにかけて春宮あたりを散策した後,秋宮に参りました。
 この下諏訪エリアには「鎌倉街道」と伝わる場所があり,該当の場所周辺には「鎌倉街道ロマンの道」なるものがあり,観光案内図にも紹介されています。なお,下諏訪の鎌倉街道は鎌倉から今の高崎市あたりを経て信濃へと通じた鎌倉街道上道からの延長上にあったもののようです。



●赤で示した径路が鎌倉街道ロマンの道(下諏訪観光案内地図より)



秋宮を起点に,境内脇を伝う上り坂の小路をたどります。集落を抜けると,段々畑状の広場。石仏と墓石が並んでいます。そして,「鎌倉みち一念坂」の道標があります。


●一念坂入口付近にて。上り坂からの眺望


一念坂入口の道標に従って上ると,舗装された道ともお別れ。民家の庭先をつたう小径はさらに細く曲がりくねり,段々畑の間へと進んでいきます。やがて,崖っぷちに沿う非常に狭い獣道のようになりました。これが一念坂なのですが,斜面を一念に駆け抜けるように登りきってしまえばいいのかもしれませんが,雪が残っているのでそうもいきません。

「もしや,“一念坂”ってこういう意味なのか?」

正しくはそうではないのですが(※),「ロマンの道」と銘打った案内板にダマされたと,やや後悔したときには既に遅し。雪深い小径を滑りそうになりながら降りるよりは上へ向かったほうが・・・

ここは慌てず,急いで,正確に

滑落しないよう片手を斜面に這わせながら,ひたすら一念に上った次第。


●幅50cm足らず,崖のほうへと微妙に傾斜した狭い上り坂。これを一気に駆け上がるのでしょうが,正直お勧めしません

進んでみれば,数十メートルでようやく,平坦な空間へと到着しました。

丘陵の頂付近は「桜ヶ城跡」。

中世の城跡です。そして,四方を御柱(おんばしら)で囲われた祠が居並ぶ高台からは,下諏訪のほぼ全景が見渡せます。




●諏訪湖と下社の森(手前)の下諏訪の街並。この眺望を目にすれば,雪道を登った甲斐があったというものです。


 この地に,居城を構えていたのは下諏訪の豪族,金刺氏。古代の科野国造(しなののくにのみやつこ)の後裔であるともいわれる同氏族は,中世には武士団であったと同時に諏訪下社の大祝(おおほうり)を世襲していました。
 鎌倉時代初期には,金刺盛澄が当主であり,この桜ヶ城に居留したといわれています。盛澄は,もともと源義仲に加担していたといわれ,それと対抗していた源頼朝とは必然的に敵対関係にあったようです。義仲の敗死後は連座して鎌倉方に処刑されてもおかしくない立場でしたが,梶原景時の口添えもあって,1187年に鎌倉の鶴岡八幡宮放生会に参加して流鏑馬を披露。その見事な腕前を認められて,盛澄は幕府の御家人となりました。以後,下諏訪の金刺氏は鎌倉幕府の動向にも深く関わり,ひいては信濃における北条得宗家の重要な協力者として歴史に名を残していきます。


●御柱に囲われた,児玉社・湯泉社・秋葉社・天白社


鎌倉街道ロマンの道,最高峰に佇むことしばし。





諏訪湖に沈みゆく夕日のパノラマを堪能し,時刻は16時をまわるころ,あたりが暗くならないうちに,下山します。
 帰途は,一念坂とは反対方向へと続く,駒王坂を下ります。諏訪下社に残る言い伝えでは,駒王丸(幼少の源義仲)が,諏訪に亡命して大祝,金刺一族の庇護下にあったといいます。そのとき,駒王丸はこのあたりの山道を駆け回っていただろうという憶測から“駒王坂”と名づけられたとのこと。こちらの山道は,雪深いものの,一念坂に比べればずいぶんと道らしい道。今から思えば,往路と復路を逆にしなかったことは正解でした。
 雪深さのため,山を這う下り道を歩き進めば,やがて来迎寺の裏手の墓地。山からの生還などと言っては大袈裟すぎる感がありますが,何せ初めてのロマンの雪道ハイキング。墓石の向こうに見える本堂の佇まいに,ホッと一息ついた次第です。



●来迎寺境内にて


鎌倉街道ロマンの道は,総行程1キロ強。しかし,山頂の城跡付近へと至るアップダウンの激しい山道なので,距離の割には大変歩き応えのあるハイキングコースです。残雪の足元よくない中,ゆっくり歩を進め,途中で立ち止まったりしながらだと,約2時間弱の行程でした。
 日が完全に沈み,あたりが薄暗くなりつつある,来迎寺境内の泉からは,下諏訪の温泉が湧き出ています。雪の山道を進み,かじかんだ手を湯に浸して,しばし暖を得た次第。

雪の坂道は,ややハードでしたが,城跡が控える頂から,諏訪湖に沈む夕日と,雪化粧した街並の大パノラマを満喫した,鎌倉街道ロマンの道でした。

(完)


※金刺盛澄が度々この場所を訪れ座禅を組み精神統一をしていたという逸話(?)から,この道を一念坂と呼ぶのだそうです。

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