●現在よく見る七夕飾り
夏越の大祓が終わると,今度はすぐに七夕祭りの話題ですね。大祓が終わった神社では,色とりどりの七夕飾りが境内にお目見えしている頃合でしょう。
七夕祭りを行う神社の中から,今回,こちらの鎌倉街道ブログでご紹介するのは,大宮八幡宮(東京都杉並区)です。
かつて鎌倉から奥州へ通じていた街道(鎌倉街道中道)の途上に位置する,大宮八幡宮では,毎年,「乞巧奠(きっこうでん)」という古式の七夕祭儀が再現されており,他ではあまり見ることができない貴重なものなのです。
現在よく見られるような,笹竹に短冊をつるして願い事をする七夕祭りが出来上がったのは,江戸時代の後期からだといわれています。
星合伝説に基づく七夕行事自体は,わが国では奈良時代前後には行われていたことが確認されていますが,江戸時代より前の七夕祭りは現在見られるようなものとはだいぶ異なった感じのものでした。
●大宮八幡宮の清涼殿内に再現された乞巧奠(きっこうでん)は七夕の源流
織女の 五百機立てて 織る布の 秋さり衣 誰れか取り見む (読み人知らず)
これは万葉集の一首で,七夕を謡ったもの。他にも織女(おりひめ)と彦星の逢瀬をうたったものなど,万葉集には七夕の歌がなんと130首以上もあるそうです。この歌には「秋」という言葉が入っていますが,旧暦だった当時は七夕といえば秋の風物だったのです。また,聖武天皇が七夕の日に詩歌を廷臣たちに作らせたという記録もあり(続日本紀),少なくとも奈良時代には,織女(織姫)や彦星(牽牛)が登場する七夕行事があったということになります。
否,もっと厳密に言えば,織女と牽牛が天の河を越えて逢うという話は古代中国で成立した『星合伝説』とよばれるもの。そして,七夕の原型になった乞巧奠は,実は『星合伝説』とは別物として南北朝時代の中国で行われていたもの。この二つが7世紀に中国の唐王朝からわが国に相前後して伝えられ,奈良時代以降にお互い融合しました。さらに日本(倭)に古来からあった棚機津女(タナバタツメ)の神事とも結びついて,平安時代になると,織女と牽牛が前面に現れて「タナバタ」という名称で呼ばれる乞巧奠の宮廷行事が行われるようになったというわけです。これが,いわゆる日本独自の七夕行事の始まり。
平安時代,七夕の乞巧奠では,詩歌を供えるだけでなく,管弦や舞踊も行われました。それを「乞巧奠遊び」といいます。当時,どのような曲でどのような舞が行われたのか完全に再現するのは難しいのですが,大宮八幡宮では,当時の記録を参考にしつつ,現在神社で行われている神事や神楽などをミックスさせて,「乞巧奠遊び」を再現しています。当時のものと同じというわけにはいきませんが,おおむね似たような雰囲気のものだったのではないでしょうか。
以下に,昨年の写真とともに大宮八幡宮の「乞巧奠遊び」の式次第を見ていきましょう。
●乞巧奠を前にしての雅楽演奏(2010.7.11撮影)
大宮八幡宮の「乞巧奠遊び」は夕方17時から執り行われます。
まず,神職一同が乞巧奠を前に一拝。
それに続いて,管弦の演奏(右写真)。琴,琵琶,笙(しょう),篳篥(ひちりき)が互いにコラボレーションして古風な音曲を奏でます。古くは中国の前漢の時代に作られたという曲から,宇多王朝のころの宮廷音楽まで数曲。華麗さと厳粛さ,どちらもそろったような雰囲気。
そして,舞踊。平安朝のころは専門の女官が舞姫として舞ったのでしょうが,この日は大宮八幡宮の巫女による浦安の舞。鶴岡八幡宮の祈年・新嘗の祭事の時など,本殿で垣間見られるのと全く同じものですが,ここではすぐ目の前で優雅な神楽を陪観することができます。
●乞巧奠を前に,浦安の舞が奉納されます(2010.7.11撮影)
さて,大宮八幡宮において,今年もまもなく七夕の催しが行われます。七夕祭りを行う神社多しといえども,かつて宮中で行われた乞巧奠遊びをここまで再現・披露しているのは数少ないのではないでしょうか。
【大宮八幡宮,平安の七夕】
☆七夕飾りと乞巧奠:2011年7月1日〜15日
☆雅楽の夕べ(2回):2011年7月3日と10日の午後5時より
☆七夕祈願祭と乞巧くぐり:2011年7月7日午後6時より
※なお,記事で紹介した写真は「雅楽の夕べ」からです。
2週間に及ぶ,大宮八幡宮の七夕期間でのイチオシはやはり,期間中の日曜日に行われる「雅楽の夕べ」です。小1時間ほどの催し物ですが,平安の七夕祭に歴史を堪能してみてはいかがでしょうか。なお,「雅楽の夕べ」は屋内(清涼殿広間)での開催なので雨天の心配はありません。
※お詫び:七夕祈願祭と乞巧くぐりの開催日を誤って掲載していました。正しくは7月7日午後6時からの催行です。申し訳ございません。