2013年09月14日
更新遅滞に関するお詫び
当、いざ鎌倉みち紀行を統括するまほろば旅日記の編集長、藤堂です。
7月28日付のリポートにあるように、この夏8月までに新田義貞の足跡を追って鎌倉街道を北から南へと何回かに分けて、リポートする予定にござりましたが、執筆を担当するリポーターの多忙、および私、藤堂の監督不十分ゆえに、約束を果たせず、秋を迎える仕儀になってしまいました。
お待ちになってくださっていた閲覧の方々にはお詫び申し上げるとともに、当方、まほろば旅日記編集部一同としても目的を果たせなかったこと痛恨にござりまする。
つきましては、誠に季節外れになってしまいますが、予定してまいった記事をこの9月以降に何とか更新することを検討、あるいは更新スケジュールを大幅再調整を検討のうえ、遅まきながら対応したいと編集長ならびに執筆リポーターは考えております(この10月に一度、まほろば旅日記編集部全体としての編集会議を開きます)。
7月末以降、実に1か月半にわたり更新なき状況にもかかわらず、日ごとのアクセス数が100前後あり続ける状況、おそらく気長にお待ちいただいておる方々が少なからず居られた状況かもしれぬと推測し、これらの方々には申し訳ないと、此度、編集責任者じきじきにお詫びの文面、したためたる仕儀にてござります。
重ね重ね、予定を違えたことお詫びいたします。
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7月28日付のリポートにあるように、この夏8月までに新田義貞の足跡を追って鎌倉街道を北から南へと何回かに分けて、リポートする予定にござりましたが、執筆を担当するリポーターの多忙、および私、藤堂の監督不十分ゆえに、約束を果たせず、秋を迎える仕儀になってしまいました。
お待ちになってくださっていた閲覧の方々にはお詫び申し上げるとともに、当方、まほろば旅日記編集部一同としても目的を果たせなかったこと痛恨にござりまする。
つきましては、誠に季節外れになってしまいますが、予定してまいった記事をこの9月以降に何とか更新することを検討、あるいは更新スケジュールを大幅再調整を検討のうえ、遅まきながら対応したいと編集長ならびに執筆リポーターは考えております(この10月に一度、まほろば旅日記編集部全体としての編集会議を開きます)。
7月末以降、実に1か月半にわたり更新なき状況にもかかわらず、日ごとのアクセス数が100前後あり続ける状況、おそらく気長にお待ちいただいておる方々が少なからず居られた状況かもしれぬと推測し、これらの方々には申し訳ないと、此度、編集責任者じきじきにお詫びの文面、したためたる仕儀にてござります。
重ね重ね、予定を違えたことお詫びいたします。
まほろば旅日記編集部
編集長官 藤堂判九郎
執筆リポーター KI
編集長官 藤堂判九郎
執筆リポーター KI
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Posted by まほろば旅日記編集部 at
12:05
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2013年07月28日
いざ,鎌倉へ
●夏の夕焼け空,新田義貞公の騎馬像(分倍河原駅前広場)
いざ,鎌倉へ向け, 全軍,進撃せよ!
騎乗して,太刀を振り上げる新田義貞公の銅像。ここは新田義貞が率いる倒幕軍と鎌倉幕府軍の一大決戦が行われた古戦場,分倍河原の地。
旧暦1333年の5月16日,新田義貞はついに北条泰家の鎌倉幕府主力軍を撃ち下しました。駅前にある銅像は,分倍河原の戦いでの義貞公の勝利を顕表して建立されたもの。歴史の趨勢を決めた戦いの記念碑としてだけでなく,ここが鎌倉街道上であることを象徴するモニュメントとしての役割も担っていると言えます。
新田義貞は,鎌倉街道上道沿いに南下して,既に人心を失い,亡国の元凶と化していた鎌倉へと進撃しました。旧5月8日に上州にて挙兵し,3度の戦いを経て,形勢を決定付けた5月16日の分倍河原の戦いに勝利,さらにその6日後,ついに鎌倉幕府を滅ぼしました。
新田の挙兵から鎌倉攻略までの出来事は,新暦でいえば6月から7月。ちょうど,アジサイやノウゼンカズラが咲き誇る初夏から盛夏にあたる時節にあたります。
1333年,運命の夏。鎌倉街道上道を南へと突き進んでいたのは,新田義貞の一行だけではありませんでした。北条一族にして信州塩田(現,長野県上田市)の領主,北条国時とその手勢もまた新田軍の鎌倉侵攻の報に接し,幕府救援に向かうべく,信濃から峠越えに上州へ,鎌倉街道上道を,新田軍の後を追って駆け抜けていました。
●塩田北条氏の居城跡のアジサイ小路(塩田平)
次号以降,鎌倉攻防をめぐって兵どもが駆け抜けた鎌倉街道上道の夏を,その足跡とともに信州から鎌倉へと一気に辿ってみたいとおもいます。
Posted by まほろば旅日記編集部 at
03:37
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2013年07月25日
大國魂神社の流鏑馬神事 ~鎌倉街道遺産~
●ケヤキ並木で,鎌倉の昔にちなんだ武者行列(2013年6月2日)
みちのくみちの方へ 左右に槻の古木あり 大なるはめぐり二丈あまり
此馬場むかし 義家朝臣奥州征伐のときに 開かれしよし
(『武蔵野地名考』より引用)
去る6月最初の日曜日,大國魂神社の参道で流鏑馬が催されました。
それに先だって,武者行列の練り歩き(冒頭写真)など,いくつかの催し物が祭りの日に華を添えました。
神社参道に続く,ケヤキ並木を進む,騎馬武者の行列。
11世紀後半,源氏興隆の祖,源頼義・義家の父子が前九年の役の際,戦勝御礼として千本のケヤキの苗木を寄進したのが,このケヤキ並木の由来であるという伝説は有名です。大國魂神社のケヤキが本当に頼義・義家父子が寄進したのかどうかはともかく,当時,六所宮と呼ばれていた,この武蔵の鎮守。平安京や東国で軍事貴族として名を馳せつつあった源氏と深い関わりがあっても不思議はないですね。
いにしえの幹道,鎌倉街道がこのあたりを南北に通じていた大國魂神社から京王府中駅にいたるケヤキの道。6月2日の午前11時,天候にも恵まれ,多くの人が見守る中,中世さながらの武者行列がここを悠然と往来しました。
武者行列が終わって,午後1時。いよいよ参道での流鏑馬が始まりました。
【第2回,大國魂神社流鏑馬】
●大國魂神社に流鏑馬を奉納したのは戸山流
打ち込みました!
●的に矢がささっています
的中!!
騎射手が馬を馳せ駆けたことを知らせるアナウンス。
矢が的を貫通する度,的中を知らすアナウンスとともにどっとあがる歓声,どこの流鏑馬でも見られる光景でしょう。
2012年に半世紀以上ぶりに復活された流鏑馬。
中世,数百年にわたって鎌倉街道の要衝であり続けたこの地に相応しい行事だと思います。
●大國魂神社の境内で見つけた,中世の陶器片
古代の律令のころには,広大な武蔵國の国府が置かれ,中世,鎌倉に武家政権が成立した後も引き続き鎌倉街道上道の要衝として機能し続けた府中の地には,それこそ千数百年以上にわたるさまざまな歴史遺産が眠っています。
よく注意してみてみれば,大國魂神社の周辺でも古代・中世の土器片などが散らばっていたりします。特に神社近辺で見つかりやすいのは,律令体制下,国府の政庁が今の境内あたりに置かれていたころの須恵器などの破片,武家時代の六所宮(今の大國魂神社)の屋根をふいていた瓦の破片や常滑焼などの陶器片。写真の破片は後者です。
古の営みを偲ぶ数々の遺物,武家時代の伝統を今に受け継ぐ流鏑馬
そして,何よりも
創建はおそらく上古の昔にまで遡り,武蔵國総社として国司の奉幣を受け,武家時代には鎌倉街道上道の要として悠久の時を刻み続けた大國魂神社
復活された流鏑馬のみならず,現存する神社の祭典には武家源氏ゆかりの起源を持つものが多々あります。府中市の鎌倉街道周辺に関していえば,質的には,武家の古都を謳っている鎌倉市に何ら引けを取らないでしょう。
もうひとつの中世武家の古都,ここにあり
大國魂神社と,今般復活した流鏑馬はその象徴なのかもしれません。
Posted by まほろば旅日記編集部 at
03:28
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2013年07月22日
今年も夏の使者,鎌倉街道の要衝に出会う
●杉袖祭の祭礼行列(2013年7月13日朝)。広報の緑色の装束の神職が拝殿で神楽を舞いました。
7月13日,府中の大國魂神社にて,盛夏の訪れを感じさせる祭典が行われました。
杉袖祭
若杉の葉枝を手に,色合せの装束を羽織った神職が拝殿にて神楽を奉納する神事です。その前の日の青袖祭とともに鎌倉幕府創建の頃にまで遡る神事です。鎌倉を拠点に武家政権を樹立した源頼朝が,1186年に武蔵国じゅうの神主に,天下泰平の祈願をこぞって行うように命令じたのが,青袖・杉袖の両祭典のそもそもの起源。鎌倉殿の命令を受けた武蔵国じゅうの神主は,武蔵総社である大國魂神社に集結して,毎年7月12日の夜から13日の朝にかけて終夜舞楽を奏するようになったのだそうです。
しかしながら,現在は武蔵全体の神職が集うこともなければ,終夜,舞楽をすることもなくなり,大國魂神社の神職だけによって細々と,しかし粛々と当時の伝統を継承しています。それが連日で行われる二つの神楽祭。7月12日には摂社の宮乃咩神社の例祭として青袖祭として,午後に神楽を奉納し,翌日の朝9時から本拝殿にて緑の装束を羽織って神楽を奉納する杉袖祭を催行し,形を変えながらも鎌倉幕府創建以来の伝統を守っているという次第です。
この日は土曜日。ちょうど休日と重なり,首尾よく,シンプルながらも厳粛な祭典の様子を拝むことができました。
【タマムシのかくれんぼ】
●実は,私も杉袖祭を拝みに来たわけよ
夏の祭典を見終えた後,境内をぐるっと散策していると,出会ったのが緑鮮やかなタマムシ。杉袖の祭典が行われているときから,拝殿の欄干にじっと留まっていたのでしょう。「緑」を貴重とする祭典のときに,これまた緑色の夏の虫を拝むことになるとは,何だか,おみくじで大吉を引いたような気持ちですね。
●巫女さんに見つからないよう,欄干に身を潜めて!? そんなわけないか・・・。
境内を彩る,あけ色のコオニユリもまた夏の風物詩(大國魂神社にて)
早起きは三文の得
とはよく言ったものです。朝早くに府中に出かけ,頼朝公ゆかりの祭典を拝んだおまけに,タマムシにもまみえ・・・
両方ともそうそう見られる代物でもないわけで,この日はグリーンがラッキーカラーだったのかもしれないと,満足して,真夏の鎌倉街道上道を一路,南へと地元の鎌倉へと戻った次第でした。
【夕刻の鎌倉でも夏の使者】
●詣でたいきなり,賽銭箱にて遭遇しました
鎌倉に戻り,所用など済ませて一路,鶴岡八幡宮にまで詣でたところ,ここでもまた思いもかけず夏の使者がお出迎え。
ここ頼朝公のお膝元では,クワガタムシ。
かつての中世武士の甲冑の鍬形の名を冠する虫とは,「武家の古都」とはよく言ったものです。
水無月の大祓も終わり,七夕祭も終わったこの日の鶴岡八幡宮はどこか落ち着いた面持ち。特に祭典などの予定もなく,静かな夏の夕暮れを迎えようとしていましたが,そんな中,「幸灯式(さちあかりのしき)」とよばれる休日の夕限定の婚儀だけが幻想的に催されようとしていました。
●夜のとばりの中,雅楽を奏でる幸灯式
【鎌倉市民としての余多ばなし】
ところで,鎌倉が世界遺産に落選して久しいこのごろですが,このところ府中,大宮,熊谷あたりへ出張で出かけることが多いわが身,仕事明けなどどうしてもこれらの地域で歴史の風物など訪ね歩く機会も多くなるものなのです。
こと鎌倉街道の要衝だった府中,律令の国府も置かれ,鎌倉よりも歴史がずっと古い府中などを散策してみれば,とみに思うこと,それは
もし鎌倉市が世界遺産足りうるのであれば,府中市もまた十分に世界遺産足りうる
古代を通じて武蔵国府が置かれ古代東国の要衝として栄え,鎌倉幕府とそれ以降の武家政権の頃にも引き続き,鎌倉街道上道の要衝で武蔵の中心都市であり続けた府中。その歴史だけを見れば,鎌倉幕府のあったわずか百数十年だけ歴史の表舞台にあり,それ以外の時代には影を潜めていた鎌倉に比べると,首都になったことこそないものの律令草創のころから,それこそ江戸,現代までも1300年以上も要衝,大都市であり続けた府中市のほうがよほど隠れた歴史遺産がありそうな気がするのですが,いかがでしょうか。
あるいは,鎌倉市を世界遺産にするのではなく,武家政権時代のネットワーク,関東平野内外へと広がる「鎌倉街道」を世界遺産として出していれば登録の運びとなったかもしれなかったりして(笑)
ま,鎌倉市ふぜいでは世界遺産は土台無理だったわけですね。現鎌倉市長さんも世界遺産登録検討のために有識者・顧問をたくさん揃えていたはずなのに,そのくらい気付かなかったのしょうかね。
それとも,委員会顧問の中味は有識者には程遠い,バカと浪費家の集まりと揶揄される鎌倉市観光協会みたいな,おべっか使いばかりだったとか(笑)
Posted by まほろば旅日記編集部 at
01:41
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2013年07月19日
鎌倉街道各地より,七夕の風景
●鶴岡八幡宮の七夕飾り(鎌倉市)
鎌倉から武蔵あたりまで,鎌倉街道周辺各地の神社でのの七夕の様子を集めてみました。各社ともいろいろと趣向を凝らしていました。
まずは鎌倉です。
●7月7日,鶴岡八幡宮。恒例の七夕まつり(鎌倉市)
そして,鎌倉から相模湾岸を西へ。
次は,同じ湘南エリアに鎮座する平塚八幡宮の七夕飾りです。
●平塚八幡宮。正面鳥居のカラフルな七夕飾り(平塚市)
実は,鎌倉の鶴岡八幡宮よりも古いといわれる平塚八幡宮。
というより,平安後期か末期に八幡神を祭り始まる前は,別の神を祭った神社だったというのが正確なところだそうです。
●平塚八幡宮の境内にも七夕飾り(平塚市)
鎌倉街道を一気に北へ,相模から武蔵へ。
鎌倉街道上道の要衝,大國魂神社より。
七夕ではなく茅の輪くぐりですが・・・
●武蔵府中は大國魂神社での夏越の茅の輪くぐり
6月30日,夏越の潔斎,茅の輪神事は,古来,七夕直前に行う禊(みそぎ)だったそうで,もともとは七夕とはセットでした。
夏越に身を清めてから,七夕の夜,地域の祖神や祖先霊をお迎えしたということです。
はい,次は人見街道(府中と杉並を東西に結ぶ鎌倉街道の支道)を東へと,遠い昔,古代海人族が水辺(善福寺川)の丘陵に営んだ聖地にルーツがあるとも,源頼義がここに八幡神を祭ったのが八幡宮としての創始であるともいわれる杉並和田の大宮八幡宮へ
●大宮八幡宮での乞巧奠神事(東京都杉並区)
見てのとおり,ここ大宮八幡宮での七夕まつりは他とはかなり趣が異なるもの。
乞巧奠(きっこうでん)といって,古式の七夕行事。
奈良~平安時代あたりの七夕を再現したもので,当時の七夕は写真のように,裁縫道具や楽器,神饌など様々なものを壇上に並べ飾って,雅楽や舞などを行い,技芸の上達などを祈願したとか。
●平安貴族の乞巧奠をほぼ忠実に再現しているとされる大宮八幡宮の七夕(東京都杉並区)
この王朝の七夕行事を今でも行っているのは,ここ大宮八幡宮と京都の冷泉家だけだとか。
以上,鎌倉街道より七夕まつり2013でした。
ちなみに鎌倉街道をさらに北へとさかのぼる上州や信濃では旧暦に則り,8月に,お盆の少し前に七夕を行う場所が多いのだそうで,今の時期は,デパートや商店街などのイベントを除いて,あまり本格的な七夕は見られないのだそうですね。
2013年05月29日
流鏑馬 ~大宮八幡宮と大国魂神社
●大宮八幡宮での流鏑馬(2013/05/26)
去る5/26の日曜日,大宮八幡宮(杉並区)で流鏑馬神事がありました。
大宮八幡宮は,鎌倉武士ともゆかりが深い神社。
●大宮八幡宮にて(2013/05/26)
実は、来たる週末6/2にも流鏑馬があります。
今度は,府中の大国魂神社で。
【大國魂神社流鏑馬奉納】
●2013/6/2(日)小雨決行(荒天中止)●
・11:00~ 鎌倉武士パレード
・13:00~ 流鏑馬(戸倉流)
かつての鎌倉街道ゆかりの地で,鎌倉武士ゆかりの行事が催されます。
Posted by まほろば旅日記編集部 at
20:22
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2013年02月09日
雪すさぶ阿佐ヶ谷神明宮
●阿佐ヶ谷神明宮の神門
去る2013年2月6日,東京は朝から雪。
鎌倉街道中道に位置する,「東京阿佐ヶ谷のお伊勢さん」こと,阿佐ヶ谷神明宮の雪景色をご紹介いたします。
拝殿ごしに,天照大神の分霊が鎮座する本殿を拝みます。
鎌倉時代のはじめ,地元の豪族が伊勢の宮川(五十鈴川)の霊石を持ち帰って祭ったのが,ここ阿佐ヶ谷神明宮の直接の起源であるといいますね。
そして,今も本殿の内にその霊石は安置されているのだとか。
雪化粧した御垣内三殿。
三棟の神明造からなる本殿は,「御垣内三殿」とも称し,中央が天照大神,右に月読命,左に須佐之男命をお祀りしているのだとか。
去る9月の例大祭では,神官が庭上座礼して厳かに祭典を執り行った斎庭も真っ白です。
出勤前に立ち寄るのでしょうか,
こんな雪の朝でもビジネスカバンにスーツ姿の人影がちらほらと参拝に訪れる次第。
最近登場したという神明宮オリジナルの絵馬。
神楽鈴を持つ巫女のイラストの背景にも,しっかり神明造の屋根が描かれています。
さて,自分もそろそろ行かなければ。
2012年12月28日
大宮八幡宮のすす払い
●杉並大宮八幡宮のすす払い(2012年12月27日 午前9時過ぎ)
12月27日の朝,大宮八幡宮(東京都杉並区)で,年末のすす払いが行われました。
神社の境内は,年始のための仮設テントがいくつも立ち並び,いつもと違ってやや手狭な雰囲気でしたが,この日は丸1日をかけて正月を迎える準備(大掃除)が行われたようです。
午前9時,拝殿での儀礼の後,社殿の清掃が始まり,装束姿の神職2名が拝殿や神門など主だった社殿を順次,長い笹竹で払っていきました。
ところで,12月半ばから今頃のかけて,各地の寺社では,このようなすす払い(すす払い神事)が行われていますが,この27日には,大宮八幡宮とは人見街道(鎌倉街道上道と中道を結ぶ支道)で結ばれている大国魂神社(府中市)でもすす払いが行われていたようです。
また,ここから南へ50キロ,鎌倉街道の終点にあたる鶴岡八幡宮ではその2週間前にすす払いが行われました。
●鎌倉,鶴岡八幡宮のすす払い(12月13日)
さて,話を杉並区の大宮八幡宮に戻します。
社務所の清掃,古い御札の回収,提灯の取り付け,そして,正月飾りの準備
笹竹によるすす払いとほぼ同時進行で,境内の内外いたるところで,作業が行われていました。こぢんまりと落ち着いた,いつもの雰囲気とはまた違った大宮八幡宮の境内でした。
●お正月の準備も始まっています(2012年12月27日)
●境内の冬桜
年末で,神社の人たちが慌しくする中,時折,訪れる参拝者。
年末年始には,すっかり装いを新たにした大宮八幡の境内はきっと参拝者でいっぱいになるのでしょう。
それでは,良いお年を
2012年11月09日
国分寺まつり歴史行列(2) ~影,影,影・・・
●歴史行列の集合写真。
国分寺まつり歴史行列,前回は出演者の表情を写真で捉えましたが,今度は一転,歴史行列の足元ばかりを捉えた写真をご紹介します。
当日は,雲ひとつない晴天だったので,地面には影がくっきり。
たまには,こういう鎌倉街道スナップもいかがでしょうか。
●王朝武官の影がくっきり
●中世女官の旅姿もくっきり
●旗の影と武官の足元
●道ゆく律令女官の行列
●それを見る観客たちの影もくっきり
●鎌倉武士の太刀あわせ
●行進を終え,全員整列
この日,歴史行列の影がくっきりと刻まれた地面の下には,律令時代の街道「東山道」が貫通していたのだとか,そしてそれはあまりルートを変えることなく中世の鎌倉街道上道へと踏襲されていったそうです。
天候にも恵まれ,身近に歴史を実感することができる,良い催し物でした。
Posted by まほろば旅日記編集部 at
03:00
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2012年11月08日
国分寺まつり歴史行列(1) ~顔,顔,顔・・・
●歴史行列参加の皆さんは,どなたも良い表情しておられました
去る11月4日,文字通り雲ひとつない快晴の日曜日。国分寺まつりへ行きました。
東京国分寺市あたりが特に歴史の舞台となった,律令時代,王朝時代,鎌倉時代の三時代を再現した歴史行列は,うわさどおり本格的なものでした。
今回で29回目となる歴史行列は国分寺市内在住の劇団関係者や一般市民が時代衣装を着て,国分寺駅から武蔵国分寺公園までを練り歩きます。
今回は古代から中世の色とりどりの装束に身を包んだ出演者の方々の表情を写真でご紹介します。
●王妃の貫禄,光明皇后
●律令時代(奈良・平安前期)の宮廷女官
●王朝時代(平安後期)の宮廷武官
●総勢40名の行列の中,最高に際立っていらしたのは,この渋さ満面,平安の郡司さん。一応,古代末期に男衾郡司だった渡来系氏族,壬生吉志福正(9世紀前半)という設定だが,着用する装束は明らかに王朝時代末期(12世紀)のもの
●律令時代の女官長
●これは中世(平安後期~鎌倉時代ごろ)の旅装束
●五条の橋に現れた牛若丸スタイル
●ご存知,鎌倉武士。上の平安郡司さんともどもなかなかのイケメン衆。渋い!
今年,初めてこの歴史行列を見学しましたが,行列の規模は京都の時代行列にまったく及ばないのでしょうが,本格的な装束などクオリティ面では引けをとらないのではないでしょうか。
国分寺市といえば古代の律令時代には武蔵国分寺が置かれ,武蔵国府があったお隣の府中市ともども武蔵国の中心地であり,鎌倉の武家政権の時代には引き続き,鎌倉街道上道の要衝であったというお土地柄です。
国分寺市のそういう歴史的な背景を考えれば,今回見た歴史行列は,国分寺の歴史をひと目でわかりやすくアピールするのには,うってつけの趣向であると思えました。
●後姿もまたいい雰囲気醸し出しています
Posted by まほろば旅日記編集部 at
03:00
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2012年11月02日
鎌倉街道上道沿いの催し物案内 (11/3,4)
●10月中旬にあった鎌倉街道武者行列(高崎市)
今週末の11月3日(土)は文化の日。
この日は各地で様々な文化イベントが行われるのですが,関東の鎌倉街道沿いにおいても,その歴史にちなんだまつりや時代行列など,数々の催し物が行われます。
その中から,鎌倉市から群馬高崎市へと通じる鎌倉街道上道沿いで,この11月3日と4日の日曜日に行われる歴史的な催事をいくつかご紹介いたします。
1.毛呂山の流鏑馬 出雲伊波比神社(埼玉県毛呂山町岩井)
この毛呂山の流鏑馬は,出雲伊波比神社(埼玉県毛呂山町岩井)で春(3月第2日曜日)と秋(11月3日)に行われます。鎌倉の鶴岡八幡宮(元八幡)を創建した源頼義・義家父子が奥州合戦(前九年の役)の戦勝御礼に出雲伊波比神社に流鏑馬を奉納したのがはじまりだといわれています。約950年の歴史があり,随所に平安時代当時の原型をとどめていると専門家からも指摘されています。
●出雲伊波比神社,流鏑馬に先立って行われる11月3日の祭礼
この流鏑馬神事は出雲伊波比神社の例祭(八幡大神の祭事)の一環として行われ,11月3日の秋の流鏑馬がメインであり,春の流鏑馬に比べてかなり大規模とのこと。単に流鏑馬の射的だけでなく様々な行事を交え,丸1日の長い時間をかけて行われるのが特徴です。なお,14時半からの夕的(ゆうまとう)が流鏑馬のメインとなります。
●開催日:2012年11月3日(土・祝)
●場所:出雲伊波比神社(JR八高線の毛呂駅下車徒歩8分)
●時間等:朝的(あさまとう)9時~9時30分,社殿での神事10時,夕的(ゆうまとう)14時30分~17時
2.倉賀野十六騎武者行列 倉賀野神社(群馬県高崎市倉賀野町)
●倉賀野神社(左)と高崎市での武者行列(右) ~但し,この武者行列の写真は倉賀野十六騎武者行列ではなく,冒頭の鎌倉街道武者行列のものです~
中世,鎌倉街道上道の要衝のひとつだった倉賀野の地は,引き続き近世には中仙道の宿場町でした。そんな倉賀野で毎年11月3日行われている武者行列は,中世から近世への過渡期にあたる16世紀に倉賀野城で活躍した,いわゆる“倉賀野十六騎”にちなんだもの。
武者行列は,当日の午前10時に倉賀野神社の境内から始まります。まずは神殿前でお祓いの神事を行った後,倉賀野の地区内を練り歩きます。
●開催日:2012年11月3日(土・祝)
●場所:倉賀野神社及び倉賀野町内(JR倉賀野駅下車徒歩13分)
●問合せ先:027(346)2158
3.八幡八幡宮 秋祭 八幡八幡宮(群馬県高崎市八幡町)
●八幡八幡宮 秋祭における太太神楽
高崎駅から信越本線で二駅先の群馬八幡駅から徒歩15分ほどに位置する八幡八幡宮は,別名「上野國一社八幡宮」とも呼ばれています。957年に石清水八幡宮から分霊勧請し創建されたこの神社には,太太神楽(だいだいかぐら)が継承され,高崎市の重要無形文化財に指定されています。そして,この太太神楽が11月3日の秋祭において奉納されます。
朝10時の本殿前での神事の後,太太神楽は神楽殿で奉納されます。ほぼ1日を費やして行われる秋祭では,神楽のほか,獅子舞の奉納や福餅撒き(福投げ)もあります。
●八幡八幡宮 秋祭の最後のお楽しみは,中学生巫女さんによる福投げ
●開催日:2012年11月3日(土・祝)
●場所:八幡八幡宮(JR群馬八幡駅下車徒歩15分)
●問合せ先:027-343-2648
4.国分寺まつり歴史行列 東京都国分寺市
毎年,11月の第一日曜日に国分寺市で行われる,国分寺まつりでは奈良,平安,鎌倉の3時代を再現した歴史行列が行われます。今年2012年は11月4日の日曜日の開催。
国分寺市といえば,その名前のとおり8世紀に武蔵国分寺が置かれ,市内の武蔵野線沿線にその跡地が残っています。そして,中世には鎌倉街道上道が南北に貫通し,当時の街道の遺構が数十メートル程度ですが,これまた国分寺跡地のすぐそばに残っています。
そんな歴史にゆかりの深い国分寺で行われる歴史行列は,規模こそ京都の時代行列には及ばないものの,十分に時代考証された時代衣装を羽織ったもので,そのクオリティは本格的であると聞き及んでいます。
まつりは午前10時に開会式があり,その後,歴史行列が国分寺駅から公園へとパレードし,正午ごろに公園でのイベントで,歴史行列が仮設ステージに再登場するという流れだそうです。
(国分寺市ホームページより転載)
●開催日時:2012年11月4日(日)午前10時~正午ごろ
●場所:JR国分寺駅前~武蔵国分寺公園
●問合せ先:042-325-0111(国分寺市役所)
【今回紹介の歴史イベントの開催地点と鎌倉街道上道】
Posted by まほろば旅日記編集部 at
03:00
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2012年10月10日
大國魂神社の秋季献灯祭(くり祭り)
●大國魂神社の拝殿前,灯明飾りが並びます
去る9月27日,夕刻に大國魂神社へ参りました。
この日は,秋季献灯祭(通称,くり祭り)の1日目。午後5時,すでに明かりがともっていました。
そして,あたりが暗くなるにつれ,灯明が一際目立ってきます。
その数,260基の灯明(ぼんぼり)。
月の夜空と,居並ぶ灯明に浮かび上がる境内の光景は大変幻想的でした。
幻想的に秋の夜空を照らす秋季献灯祭は,今から45年ほど前に始まった行事だそうです。神社に献灯祭の保存実行委員会があり,くり祭りに合わせて運営一切を行っているのだとか。
そして,灯明の絵柄などは毎年,一般などからの公募で書き手を募っているのだそうで,様々な趣向の絵柄が見られました。
「夏に行った鎌倉のぼんぼり祭りも良かったけど,大國魂のこの傘のボンボリも趣きがあっていいよね・・・」
秋風に乗せて,どこからともなくこんな会話が漏れ聞こえた次第。
・・・はい,同感。
ここ府中,大國魂神社より鎌倉街道上道を南に下ること約60キロ。
●鎌倉街道上での鶴岡八幡宮,大國魂神社,大宮八幡宮の位置関係。黄線が鎌倉街道中道,緑線が鎌倉街道上道
鎌倉街道が集約する終点,鎌倉にある鶴岡八幡宮では,8月の夏越・立秋を含む3日間にわたって,ぼんぼり祭りが開催されています。
●鶴岡八幡宮の夏の風物詩,ぼんぼり祭り(2008年8月6日撮影)
こちらは,戦前に地元鎌倉の文士の発案で始まったというから,大國魂神社の献灯祭よりは先輩。知名度や社会的地位に応じて選定された鎌倉在住の名士たちによって描かれた絵や文字のぼんぼりが約400基,熱帯夜を焦がします。
そして,探せば,湘南や鎌倉街道沿いには他にも類似のおまつりがあります。
【平塚八幡宮のぼんぼり祭り】
(2008年9月13日撮影)
湘南平塚に鎮座する平塚八幡宮では,9月中秋のころにぼんぼり祭りが開催されます。昭和53年から始まった平塚のぼんぼり祭りは,湘南在住の著名人と一般公募からの絵柄や文字のぼんぼり200基以上が境内いっぱいに点灯されます。
【大宮八幡宮の納涼天神祭り】
(2008年7月25日撮影)
鎌倉街道中道沿いの要衝,大宮八幡宮はここならではの祭事・行事が多いことで地元杉並で知られています。毎年7月25日に行われるぼんぼりの行事。実は境内社の大宮天神社のまつりの一環として行われます。ぼんぼりの絵は学業・技芸の上達を祈願し,近隣の園児と小中学生,約200名によって描かれたものです
いろいろあるものですが,鎌倉街道を再び府中,大國魂神社に戻りましょう。
●神職が灯明の脇を通って行きます
●夜間も開放された拝殿前
●参道にも灯明がズラリ並びます
秋季献灯祭は,参道に栗の屋台が並ぶくり祭りに合わせて行われるのですが,今年の27日は台風接近もあって,あいにく屋台は全く出ませんでした。
●鳥居と灯明
大変,幻想的な雰囲気の中に浸りきった木曜の夜でした。
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│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2012年10月04日
武蔵杉並の杜,秋の例大祭
●阿佐ヶ谷神明宮の例大祭の中核をなす宵宮祭。本殿前の斎庭で伊勢神宮や熱田神宮と同様の作法で祭儀が行われます(2012年9月15日)
去る,9月の3連休,阿佐ヶ谷神明宮と大宮八幡宮において例大祭が催行されました。
いずれの社も,鎌倉街道中道の途上に位置する武蔵杉並の鎮守です。
【阿佐ヶ谷神明宮の例大祭】
阿佐ヶ谷神明宮において,2日にわたる例大祭のうち,最も核心となる祭儀がこの9月15日の夕刻に催行された宵宮祭です。東京都神社庁から献幣使を迎えて,例大祭のはじまりを告げました。
●祭儀の前に拝殿前に設けられた祓所にて潔斎をする神社庁の献幣使と阿佐ヶ谷神明宮の神職(2012年9月15日)
ここ阿佐ヶ谷神明宮の宵宮祭の神事は「庭上座礼」という,古式の作法に則って行われます(冒頭写真を参照)。
●冒頭写真と同じ阿佐ヶ谷神明宮のもの(左)と熱田神宮の例大祭での庭上座礼(右)
庭上座礼の作法は,伊勢神宮や熱田神宮と同様のもの。現在,日本全国の神社でもこの作法で祭儀を行うところは2神宮を除いてはほとんど例がないのだそうです。
阿佐ヶ谷神明宮の例大祭において,庭上座礼の祭儀を行うようになったのは実は2年前からのことだそうです。それ以前の阿佐ヶ谷神明宮は拝殿と本殿が隣接したよくある社殿構造で,現在のように拝殿と本殿の間に御垣内の広庭はありませんでした。当然,諸々の祭儀も屋内(拝殿の中)で行われていたのです。
現在,阿佐ヶ谷神明宮は,全国的にも珍しい庭上座礼の古式に則って祭儀を行うことがある神社ということになります。
●庭上座礼の祭儀のあと,神楽「浦安の舞」が奉納されました
献幣使と阿佐ヶ谷神明宮の神職が広い斎庭に座しての神事,それに続いての巫女神楽,そして参列者による玉串と,小1時間ほどの古式ゆかしい宵宮祭でした。
そして,翌9月16日には,各種の催し物とともに各地区の氏子衆に担がれた神輿が境内になだれこむ神幸祭が行われたようです。
【大宮八幡宮の例大祭】
翌9月16日は,同じ杉並区にある大宮八幡宮,秋の大祭へと向かいました。こちらも東京都神社庁より献幣使をお迎えして,午前10時に「例祭・奉幣祭」が催行されました。
●大宮八幡宮,秋の大祭の中核をなす「例祭・奉幣祭」の一幕(2012年9月16日)
大宮八幡宮は,阿佐ヶ谷神明宮すぐそばのJR阿佐ヶ谷駅から,途切れ途切れに鎌倉街道中道であると伝わる箇所が点在する道をほぼ南の方向に3キロか4キロほどあるいたところ,電車の駅でいえば京王井の頭線の西永福駅の近く,ちょうど伝鎌倉街道中道と人見街道が交差するところにあります(下の地図参照)。
●鎌倉街道中道(オレンジ色の道)と阿佐ヶ谷神明&大宮八幡両宮(赤丸)の位置関係
9月16日,この日は朝から大宮八幡宮の秋の祭典でも中核となる祭儀や,神楽殿での舞楽の披露など,「古式」,「厳粛」を絵に描いたような日。9月15~17日の3日間にわたるまつり期間のうちでも最も歴史と古い伝統を感じさせる行事や催し物が拝観できました。
●境内の神楽殿では,舞楽が披露されました(2012年9月16日)
「現在でも,何となく安らぎを感じるとか,神聖な感じがするという場所があると思うんですよね。それは千年前あるいはそれ以前の古からずっとそうだった場所が,古社として今に残っていたりするんでしょうね」
大宮八幡宮で偶然,話しかけた方がたまたま秋の大祭期間だけ神職として奉仕しているという学芸関係の方でした。清和源氏に始まる大宮八幡宮の由来や神社成立以前の和田大宮のアマ族の聖地のことから始まって延々,清涼殿のロビーで話すこと数十分ほど。
昨今,はやりのパワースポットの定義としては最適だなと思えるようなフレーズになるほどと相槌を打った次第。
伊勢神宮然り,山辺の道然り,宇佐神宮,宗像大社然り,諏訪大社・・・
そんな遠方の事例を出さなくても,自分の地元界隈にもちゃんとあった,2箇所も。
●笹リンドウの白旗たなびく大宮八幡宮の社殿。清和源氏ゆかりの神社には大変似つかわしいです(2012年9月16日)
普段,とくに祭事などがないときにもちょくちょく訪れる大宮八幡宮。社殿を取り囲む和田大宮の社叢(杜)と脇を流れる善福寺川の雰囲気は確かにいつ訪れても,気分が落ち着きます。ビル群や宅地街がなかった古代や中世であれば,それがなおさらだったろうことは想像に難くありません。
今から949年前の西暦1063年に,源頼義が神威を感じたとか,白旗(源氏のシンボル)がたなびくような雲を和田大宮の上空に見たという伝承があるということは,源氏の軍が訪れた11世紀のころには既にこの地域が特別な場所として神聖視され続けていたことを物語っているのかもしれない。
●紙垂(しで)たなびく,阿佐ヶ谷神明宮の拝殿(2012年9月15日)
大宮八幡宮が鎮座する和田大宮に比べると,周辺の都市開発があまりに進み神明造りの社殿とわずかな社叢(杜)の阿佐ヶ谷神明宮もまた,鎌倉に武家政権が誕生して間もない12世紀末に地元の豪族が,伊勢神宮を勧請して創建した鎌倉街道沿いの古社。ここもまた神明宮創立以前には,東国遠征の途にあったヤマトタケルノミコトゆかりの聖地として崇められていたという伝承があります。
こちらも時折,足を運ぶのですが宅地とビルの街中なのに,気のせいか,何となく安らぎを感じるといえば,安らぎを感じる雰囲気があります。
阿佐ヶ谷神明宮と大宮八幡宮。
もしかすると,パワースポットとして紹介されているという先入見による自分の思い込みなのかもしれないけれど,それでも何となくそこに居たいような,足を運びたいような感じにいつも包まれる杉並の杜。
そんな鎌倉街道ゆかりの「聖地」で,年に一度の例大祭を立て続けに堪能できた,初秋の連休でした。
●大宮八幡宮の菊被綿(きくのきせわた)。例大祭の期間中,清涼殿ロビーで披露されました(2012年9月17日撮影)
【阿佐ヶ谷神明宮 歴史と由来】
日本武尊が東征の帰途阿佐谷の地で休息し、後に尊の武功を慕った村人が旧社地(お伊勢の森と称される現在の阿佐谷北5丁目一帯)に一社を設けたのが当宮の始まりといわれております。
建久年間(1190~1198年)には土豪横井兵部(一説には横川兵部)が伊勢神宮に参拝したおり、神の霊示を受け、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられ、この霊石は今も御神体として御本殿の奥深く鎮っております。
江戸時代から庶民の信仰が篤く、今に至るそうです。
【大宮八幡宮 歴史と由来】
70代・後冷泉天皇の天喜年中(1053〜57)に、奥州に乱が起き、この乱を鎮めよとの勅命をうけた鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。これが当宮の創建の縁起であります。
また、その子八幡太郎義家公も後三年の役のあと、父にならい当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたと伝えられています。
かつては武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、昭和44年に境内の北端につづく旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡が発掘され、この地は太古からの聖域であったことが判明致しております。
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│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2012年08月29日
夏の使者@大國魂神社
真夏の大國魂神社にて
境内にてふと出会った,真夏の使者
野生のものなのか,それとも飼われていたものが逃げたものか
ともあれ,いるんですね,東京都にも。
少しばかり,遊んでもらいました。
テイク・オフ!
武蔵総社の森で達者で暮らせよ~
拝殿の庭には,これまた盛夏を彩るコオニユリが咲き乱れていました。
かぶと虫の 無事祈りてや 小鬼百合
さきたま満ちる 夏の神苑
(写真:2012年7月24日撮影)
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03:28
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2012年04月11日
大國魂神社3.11 ~鎌倉街道上道からの復興祈願~
●随神門前で震災追悼と復興祈願の儀式が始まります
ちょうど1ヶ月前のこの時,府中の大國魂神社において震災復興祈願の儀式が行われました。
去年震災が発生した14時46分ちょうど,多くの人々が見守る中,神職と招待参列者が列を成して,随神門へとやってきました。
まずは,お清めの儀式
大祓詞の唱和。
2011年9月に新調された,真新しい随神門にて,震災1年の節目に当たっての祈願には,震災で府中近隣に避難してきた東北出身の人たちも招待され,参列していたそうです。
被災地の人々による玉串の奉奠が済むと,式典も終わり。
一同,退下します。
●式典,終わって
何らかの節目ごとに威儀を正すことの大切さも感じさせてくれるような一時でもありました。
古代から中世にかけて,東国の要衝であった武蔵国府からの祈りが,かつて関東の各地と遠隔地を結んでいた鎌倉街道を経て奥州へも届いてくれるといいですね・・・
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14:46
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2012年03月24日
大國魂神社の梅
2012年3月11日の朝,大國魂神社境内では紅梅が見ごろを迎えていました。
今年は春の花全般に開花状況が芳しくない中,一際,鮮烈な色彩を放っていました。
春されば まづ咲く宿の 梅の花
ひとり見つつや 春日暮らさむ
万葉集より
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00:38
│鎌倉街道上道(武蔵野~上つ毛野)
2012年03月11日
東日本大震災から1年が過ぎるにあたって
東日本大震災から1年が過ぎました。
次第に復興が進む反面、なかなか解決しがたい諸問題が山積しているのもまた事実でございます。
我が信州にて、昨年3月12日に震度6の強い揺れが襲った栄村もまた然り。
信濃の国、長野県は引き続き、今後も被災地域の支援と復興促進を支援してまいります。
(まほろば旅日記編集統括長 藤堂判九郎)
↑「いざ鎌倉みち紀行」記事からは、塩田前山寺の石仏
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14:46
2012年02月17日
下諏訪,残雪の鎌倉街道ロマンの道
●残雪の諏訪秋宮
前記事からの続きです。
去る1月22日,午前から昼過ぎにかけて春宮あたりを散策した後,秋宮に参りました。
この下諏訪エリアには「鎌倉街道」と伝わる場所があり,該当の場所周辺には「鎌倉街道ロマンの道」なるものがあり,観光案内図にも紹介されています。なお,下諏訪の鎌倉街道は鎌倉から今の高崎市あたりを経て信濃へと通じた鎌倉街道上道からの延長上にあったもののようです。
●赤で示した径路が鎌倉街道ロマンの道(下諏訪観光案内地図より)
秋宮を起点に,境内脇を伝う上り坂の小路をたどります。集落を抜けると,段々畑状の広場。石仏と墓石が並んでいます。そして,「鎌倉みち一念坂」の道標があります。
●一念坂入口付近にて。上り坂からの眺望
一念坂入口の道標に従って上ると,舗装された道ともお別れ。民家の庭先をつたう小径はさらに細く曲がりくねり,段々畑の間へと進んでいきます。やがて,崖っぷちに沿う非常に狭い獣道のようになりました。これが一念坂なのですが,斜面を一念に駆け抜けるように登りきってしまえばいいのかもしれませんが,雪が残っているのでそうもいきません。
「もしや,“一念坂”ってこういう意味なのか?」
正しくはそうではないのですが(※),「ロマンの道」と銘打った案内板にダマされたと,やや後悔したときには既に遅し。雪深い小径を滑りそうになりながら降りるよりは上へ向かったほうが・・・
ここは慌てず,急いで,正確に
滑落しないよう片手を斜面に這わせながら,ひたすら一念に上った次第。
●幅50cm足らず,崖のほうへと微妙に傾斜した狭い上り坂。これを一気に駆け上がるのでしょうが,正直お勧めしません
進んでみれば,数十メートルでようやく,平坦な空間へと到着しました。
丘陵の頂付近は「桜ヶ城跡」。
中世の城跡です。そして,四方を御柱(おんばしら)で囲われた祠が居並ぶ高台からは,下諏訪のほぼ全景が見渡せます。
●諏訪湖と下社の森(手前)の下諏訪の街並。この眺望を目にすれば,雪道を登った甲斐があったというものです。
この地に,居城を構えていたのは下諏訪の豪族,金刺氏。古代の科野国造(しなののくにのみやつこ)の後裔であるともいわれる同氏族は,中世には武士団であったと同時に諏訪下社の大祝(おおほうり)を世襲していました。
鎌倉時代初期には,金刺盛澄が当主であり,この桜ヶ城に居留したといわれています。盛澄は,もともと源義仲に加担していたといわれ,それと対抗していた源頼朝とは必然的に敵対関係にあったようです。義仲の敗死後は連座して鎌倉方に処刑されてもおかしくない立場でしたが,梶原景時の口添えもあって,1187年に鎌倉の鶴岡八幡宮放生会に参加して流鏑馬を披露。その見事な腕前を認められて,盛澄は幕府の御家人となりました。以後,下諏訪の金刺氏は鎌倉幕府の動向にも深く関わり,ひいては信濃における北条得宗家の重要な協力者として歴史に名を残していきます。
●御柱に囲われた,児玉社・湯泉社・秋葉社・天白社
鎌倉街道ロマンの道,最高峰に佇むことしばし。
諏訪湖に沈みゆく夕日のパノラマを堪能し,時刻は16時をまわるころ,あたりが暗くならないうちに,下山します。
帰途は,一念坂とは反対方向へと続く,駒王坂を下ります。諏訪下社に残る言い伝えでは,駒王丸(幼少の源義仲)が,諏訪に亡命して大祝,金刺一族の庇護下にあったといいます。そのとき,駒王丸はこのあたりの山道を駆け回っていただろうという憶測から“駒王坂”と名づけられたとのこと。こちらの山道は,雪深いものの,一念坂に比べればずいぶんと道らしい道。今から思えば,往路と復路を逆にしなかったことは正解でした。
雪深さのため,山を這う下り道を歩き進めば,やがて来迎寺の裏手の墓地。山からの生還などと言っては大袈裟すぎる感がありますが,何せ初めてのロマンの雪道ハイキング。墓石の向こうに見える本堂の佇まいに,ホッと一息ついた次第です。
●来迎寺境内にて
鎌倉街道ロマンの道は,総行程1キロ強。しかし,山頂の城跡付近へと至るアップダウンの激しい山道なので,距離の割には大変歩き応えのあるハイキングコースです。残雪の足元よくない中,ゆっくり歩を進め,途中で立ち止まったりしながらだと,約2時間弱の行程でした。
日が完全に沈み,あたりが薄暗くなりつつある,来迎寺境内の泉からは,下諏訪の温泉が湧き出ています。雪の山道を進み,かじかんだ手を湯に浸して,しばし暖を得た次第。
雪の坂道は,ややハードでしたが,城跡が控える頂から,諏訪湖に沈む夕日と,雪化粧した街並の大パノラマを満喫した,鎌倉街道ロマンの道でした。
(完)
※金刺盛澄が度々この場所を訪れ座禅を組み精神統一をしていたという逸話(?)から,この道を一念坂と呼ぶのだそうです。
2012年02月12日
睦月の諏訪下社で,木遣り唄に出会う
●下諏訪の春宮にて,木遣り唄を奉納する地元の保存会(2012年1月22日)
やまの かみさま おねがいだ
去る1月下旬,正月気分も抜けたある休日,1年ぶりに下諏訪へ足を伸ばしました。甲信越で雪が降り積もった翌日は青空が広がっていましたが,下諏訪の街も神社も雪化粧でした。
特急あずさ号を降りたのが午前11時。上空からポタポタと,水滴が滴り落ちる街中を進んで,諏訪下社の春宮と秋宮へ参詣してまいりました。先週末に,春宮の筒粥神事も終わり,秋宮での新年祈請祭も済んだ下諏訪は観光客の往来などもあるものの,昨年の新年祈請祭を知る身にはいくぶん落ち着いた雰囲気でした。
●残雪の秋宮は厄除け祈願の最中
下諏訪駅により近い,秋宮。冬季期間中は下諏訪の神様が鎮座するお宮であると云われており,ここ数日は参拝者を対象に厄除け祈願が行われているため,人の往来もしばしばでしたが,ここから徒歩10分程度離れた春宮は人影もまばらで物静かでした。
そんな静寂を破った,否,静かな社叢にパッと華を咲かせたのが,冒頭写真にある,木遣り唄保存会の方々。
静かな境内にいると,赤い半被を羽織り,おんべを持った一行が春宮の鳥居を中へと進んでまいりました。一昨年行われた七年に一度の御柱祭の木遣りで活躍しましたが,本日は保存会の宣伝ビデオ作成のためのロケをするのだとのことでした。
颯爽とした,おんべ行列に,甲高く響き渡る木遣り唄。促されるまま,始終見物した次第。境内いっぱいにこだまする木遣り唄に誘われてか,人影まばらだった春宮の境内も気がつけば,地元の人や観光客がたくさん集まっていました。これは何の行事?と驚きながらも,舞殿の注連縄をバックに,おんべを掲げ木遣り唄を合唱する姿を,皆,しきりに写メールしたり,デジカメに収めたりしていました。
「珍しいね」,「伝統芸能を間近に見られてラッキー」,「こんな機会そうそうないよね」・・・
あちこちから漏れ聞こえてきたワード,いずれも同感。
下諏訪の神様が只今不在のお宮に,一足早く,春一番が吹き抜けたような小1時間の出来事でした。
思いがけない幸運に感謝しつつ春宮を後にしたのは既に13時をまわる時刻。秋宮付近で信州そばの昼食をとって,下諏訪の鎌倉街道へと向かいました。
(つづく)
2012年01月16日
粥占神事 2012
●諏訪下社(春宮)の筒粥神事 ~2011年1月撮影
去る1月14と15日,今年の作物の出来や世相を占う筒粥または粥占いの神事が,諏訪大社をはじめ各地で行われたようです。
昨年の今頃,こちらで諏訪大社の筒粥神事の様子と占い結果をレポートしましたが,今年も筒粥神事の結果が出たようです。
(諏訪大社筒粥結果2012)
「世の中,三分六厘」
ちなみに昨年は三分五厘なので,それよりは若干ましではあるけれど,残念ながら,まだまだ厳しい世相が続くという結果が出てしまっているようです。
その他,詳しくは下記の一覧表を見てください。
よく当たるといわれている諏訪大社の筒粥占いですが,昨年は三分五厘という厳しい結果がどうであったかは言わずもがな。だからこそ,今年の結果はかなり気になるところだったのですが,三分六厘という結果に昨年より悪くないという安堵と同時にまだまだ油断ならないな,とも思った次第です。
ところで,自分,今年の1月15日は諏訪大社ではなく,和歌山市は,紀伊一之宮「伊太祁曽神社」の粥占神事に参っていました。そちらは,各種作物(果物と野菜)の出来高占いのみで世相占いはなかったのですが,みかんをはじめ果物類を占う筒粥はおおむねぎっしりと詰まっていましたが,野菜類はものによってはバラツキがあったようで・・・
伊太祁曽神社の粥占神事の詳細などは,そのうち古代史ブログ「倭(ヤマト)しうるはし」のほうでレポートすると思います。
(お詫び)
昨年,諏訪大社の筒粥神事のレポートにおいて「十が満点だろうから,三分五厘は・・・」と書きましたが,正しくは満点は十ではなくて五なのだそうですね。申し訳ありませんでした。
Posted by まほろば旅日記編集部 at
20:39