2012年02月17日

下諏訪,残雪の鎌倉街道ロマンの道


●残雪の諏訪秋宮


前記事からの続きです。

去る1月22日,午前から昼過ぎにかけて春宮あたりを散策した後,秋宮に参りました。
 この下諏訪エリアには「鎌倉街道」と伝わる場所があり,該当の場所周辺には「鎌倉街道ロマンの道」なるものがあり,観光案内図にも紹介されています。なお,下諏訪の鎌倉街道は鎌倉から今の高崎市あたりを経て信濃へと通じた鎌倉街道上道からの延長上にあったもののようです。



●赤で示した径路が鎌倉街道ロマンの道(下諏訪観光案内地図より)



秋宮を起点に,境内脇を伝う上り坂の小路をたどります。集落を抜けると,段々畑状の広場。石仏と墓石が並んでいます。そして,「鎌倉みち一念坂」の道標があります。


●一念坂入口付近にて。上り坂からの眺望


一念坂入口の道標に従って上ると,舗装された道ともお別れ。民家の庭先をつたう小径はさらに細く曲がりくねり,段々畑の間へと進んでいきます。やがて,崖っぷちに沿う非常に狭い獣道のようになりました。これが一念坂なのですが,斜面を一念に駆け抜けるように登りきってしまえばいいのかもしれませんが,雪が残っているのでそうもいきません。

「もしや,“一念坂”ってこういう意味なのか?」

正しくはそうではないのですが(※),「ロマンの道」と銘打った案内板にダマされたと,やや後悔したときには既に遅し。雪深い小径を滑りそうになりながら降りるよりは上へ向かったほうが・・・

ここは慌てず,急いで,正確に

滑落しないよう片手を斜面に這わせながら,ひたすら一念に上った次第。


●幅50cm足らず,崖のほうへと微妙に傾斜した狭い上り坂。これを一気に駆け上がるのでしょうが,正直お勧めしません

進んでみれば,数十メートルでようやく,平坦な空間へと到着しました。

丘陵の頂付近は「桜ヶ城跡」。

中世の城跡です。そして,四方を御柱(おんばしら)で囲われた祠が居並ぶ高台からは,下諏訪のほぼ全景が見渡せます。




●諏訪湖と下社の森(手前)の下諏訪の街並。この眺望を目にすれば,雪道を登った甲斐があったというものです。


 この地に,居城を構えていたのは下諏訪の豪族,金刺氏。古代の科野国造(しなののくにのみやつこ)の後裔であるともいわれる同氏族は,中世には武士団であったと同時に諏訪下社の大祝(おおほうり)を世襲していました。
 鎌倉時代初期には,金刺盛澄が当主であり,この桜ヶ城に居留したといわれています。盛澄は,もともと源義仲に加担していたといわれ,それと対抗していた源頼朝とは必然的に敵対関係にあったようです。義仲の敗死後は連座して鎌倉方に処刑されてもおかしくない立場でしたが,梶原景時の口添えもあって,1187年に鎌倉の鶴岡八幡宮放生会に参加して流鏑馬を披露。その見事な腕前を認められて,盛澄は幕府の御家人となりました。以後,下諏訪の金刺氏は鎌倉幕府の動向にも深く関わり,ひいては信濃における北条得宗家の重要な協力者として歴史に名を残していきます。


●御柱に囲われた,児玉社・湯泉社・秋葉社・天白社


鎌倉街道ロマンの道,最高峰に佇むことしばし。





諏訪湖に沈みゆく夕日のパノラマを堪能し,時刻は16時をまわるころ,あたりが暗くならないうちに,下山します。
 帰途は,一念坂とは反対方向へと続く,駒王坂を下ります。諏訪下社に残る言い伝えでは,駒王丸(幼少の源義仲)が,諏訪に亡命して大祝,金刺一族の庇護下にあったといいます。そのとき,駒王丸はこのあたりの山道を駆け回っていただろうという憶測から“駒王坂”と名づけられたとのこと。こちらの山道は,雪深いものの,一念坂に比べればずいぶんと道らしい道。今から思えば,往路と復路を逆にしなかったことは正解でした。
 雪深さのため,山を這う下り道を歩き進めば,やがて来迎寺の裏手の墓地。山からの生還などと言っては大袈裟すぎる感がありますが,何せ初めてのロマンの雪道ハイキング。墓石の向こうに見える本堂の佇まいに,ホッと一息ついた次第です。



●来迎寺境内にて


鎌倉街道ロマンの道は,総行程1キロ強。しかし,山頂の城跡付近へと至るアップダウンの激しい山道なので,距離の割には大変歩き応えのあるハイキングコースです。残雪の足元よくない中,ゆっくり歩を進め,途中で立ち止まったりしながらだと,約2時間弱の行程でした。
 日が完全に沈み,あたりが薄暗くなりつつある,来迎寺境内の泉からは,下諏訪の温泉が湧き出ています。雪の山道を進み,かじかんだ手を湯に浸して,しばし暖を得た次第。

雪の坂道は,ややハードでしたが,城跡が控える頂から,諏訪湖に沈む夕日と,雪化粧した街並の大パノラマを満喫した,鎌倉街道ロマンの道でした。

(完)


※金刺盛澄が度々この場所を訪れ座禅を組み精神統一をしていたという逸話(?)から,この道を一念坂と呼ぶのだそうです。  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 03:00Comments(1)信州の鎌倉みち

2012年02月12日

睦月の諏訪下社で,木遣り唄に出会う


●下諏訪の春宮にて,木遣り唄を奉納する地元の保存会(2012年1月22日)


やまの かみさま  おねがいだ


去る1月下旬,正月気分も抜けたある休日,1年ぶりに下諏訪へ足を伸ばしました。甲信越で雪が降り積もった翌日は青空が広がっていましたが,下諏訪の街も神社も雪化粧でした。
 特急あずさ号を降りたのが午前11時。上空からポタポタと,水滴が滴り落ちる街中を進んで,諏訪下社の春宮と秋宮へ参詣してまいりました。先週末に,春宮の筒粥神事も終わり,秋宮での新年祈請祭も済んだ下諏訪は観光客の往来などもあるものの,昨年の新年祈請祭を知る身にはいくぶん落ち着いた雰囲気でした。


●残雪の秋宮は厄除け祈願の最中


 下諏訪駅により近い,秋宮。冬季期間中は下諏訪の神様が鎮座するお宮であると云われており,ここ数日は参拝者を対象に厄除け祈願が行われているため,人の往来もしばしばでしたが,ここから徒歩10分程度離れた春宮は人影もまばらで物静かでした。
 
そんな静寂を破った,否,静かな社叢にパッと華を咲かせたのが,冒頭写真にある,木遣り唄保存会の方々。
 静かな境内にいると,赤い半被を羽織り,おんべを持った一行が春宮の鳥居を中へと進んでまいりました。一昨年行われた七年に一度の御柱祭の木遣りで活躍しましたが,本日は保存会の宣伝ビデオ作成のためのロケをするのだとのことでした。
 颯爽とした,おんべ行列に,甲高く響き渡る木遣り唄。促されるまま,始終見物した次第。境内いっぱいにこだまする木遣り唄に誘われてか,人影まばらだった春宮の境内も気がつけば,地元の人や観光客がたくさん集まっていました。これは何の行事?と驚きながらも,舞殿の注連縄をバックに,おんべを掲げ木遣り唄を合唱する姿を,皆,しきりに写メールしたり,デジカメに収めたりしていました。

「珍しいね」,「伝統芸能を間近に見られてラッキー」,「こんな機会そうそうないよね」・・・

あちこちから漏れ聞こえてきたワード,いずれも同感。

下諏訪の神様が只今不在のお宮に,一足早く,春一番が吹き抜けたような小1時間の出来事でした。

思いがけない幸運に感謝しつつ春宮を後にしたのは既に13時をまわる時刻。秋宮付近で信州そばの昼食をとって,下諏訪の鎌倉街道へと向かいました。

(つづく)



  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 03:00信州の鎌倉みち

2011年02月23日

浅間から善光寺の雪景色


●鎌倉街道上道(善光寺街道)の地図

前回は塩田・別所温泉へと至る,信州の鎌倉街道をご紹介しましたが,今回は長野県内を通るもうひとつの鎌倉街道,すなわち群馬県側から碓氷峠を経て軽井沢から信濃善光寺へと向かう街道沿いの雪景色風景を何枚かご紹介します。

《1.浅間山》



これは中軽井沢からの浅間山。しなの鉄道の駅前は雪の季節にかかわらず浅間山がはっきりと大きく見えるスポットです。



そして,こちらは追分あたりからの浅間山。雪道と家とのコラボレーションが信濃らしい雰囲気でした。


雲間にしるき明方の浅間の煙にまがふは・・・
(宴曲抄より)


「宴曲抄」善光寺修行の部にもこのように記されている浅間とは,きっと山を最もはっきりとよく見渡せる場所なのでしょうか。だとすれば,やはり今の軽井沢の少し西寄り,信濃追分あたりなのかもしれないですね。

そして,しなの鉄道沿いにやや離れた場所へと遡上して,

「宴曲抄」では「坂木」と書かれた今の坂城町です。

《2.坂城神社》



しなの鉄道,坂城駅から参道が伸びている坂城神社の雪景色です。延喜式が編纂された10世紀前半には既にこの地にあった古い神社。「坂城」の地名は,古代の外的を防ぐ砦を意味する「柵城(さくき)」から来ているのだそうですね。
 また,中世から近世にかけては,あの村上義清を輩出した信濃源氏「村上氏」の館がこの地にあったのだそうですね。

坂城駅からしなの鉄道で北上し,戸倉,千曲駅を経て屋代駅。


よも佐良科(さらしな)と見ゆるは・・・


と「宴曲抄」でも記された更科郡へと入ります。

姨捨山とは千曲川をはさんで反対側になりますが,上古,更科に君臨した王(きみ)が眠る「王家の谷」ならぬ峰です。

《3.森将軍塚古墳》



山頂に鎮座する全長100メートルに及ぶ前方後円墳は長野県では最大級のもの。4世紀末に築造されたと考えられることから4世紀中頃から後半にこの地を支配した王(きみ)の墳墓だとされていて,副葬品からはヤマト王権とかかわりの深い人物だったと考えられるとのこと。

四道将軍として北陸道から会津へと至った大彦命(オオヒコノミコト),科野(しなの)を言向けてから尾張へ向かったという倭建命(ヤマトタケルノミコト)

記紀にも出てくる,初期ヤマト王権のふたりの英雄の名が頭をよきるけれど,いずれも伝説色の強いものなので,何とも言えません。



ともあれ,山上の古墳も麓に復元された科野ムラも,晴れていれば更級の山々が見渡せる絶景のおススメスポットです。

ここまで来れば,善光寺のある長野市内まではあと一息。再びしなの鉄道屋代駅から長野行きに乗車して,20分ほどで篠ノ井も犀川の渡りも越えて終点の長野駅に到着して,“彼所に詣(まうで)”ることができますよ。

《4.信濃善光寺》



まさしく,早起きは三文の徳。

朝早くに善光寺にまで詣でてみれば,雪の中での御朝事にも巡り合うことができます。

それでも遅参でして,この日は山門の外側から大僧正様のお帰りを遠巻きに見送るのみでしたが,次来るときにはもっと早起きしてお数珠頂戴をきちんといただけたらと思います。

以上,浅間から善光寺の雪景色。

写真で紹介した1から4の場所を鎌倉街道上道の地図上に赤い印()で示すと以下のとおりです。




昨年までに撮り貯めていた写真,雪景色のカットは限りあるので,今回,大変に大雑把なレポートとなってしまいました。

(参考文献)
・「宴曲抄」善光寺修行 (鎌倉極楽寺の僧,明空 作)
  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 04:30信州の鎌倉みち

2011年02月14日

雪の鎌倉みち(3) ~別所温泉郷


●上田電鉄別所線,別所温泉駅にて

15時,別所温泉

下之郷あたりから鎌倉道(鎌倉街道上道)を,雪の中をほぼ3時間歩いてようやくまみえました。

〝ようこそ,別所温泉へ〝

案内の看板を上目に,駅から続くゆるい傾斜を上がって温泉郷へと向かいます。まもなく夕のころに差し掛かる時刻だったからか,それほど人の姿はありませんでした。

●積雪の将軍塚

傾斜の中ほど,将軍塚です。この塚は桜の季節,紅葉ともに意外と見どころですが,このたび雪景色もなかなかのものでした。これが平維茂の塚であるという話はここの以前の記事で紹介したとおりですが,8世紀ごろの円墳ではないかという説もあるそうです。
 将軍塚で道を右手に折れて,ずっと行き当たりまで向かいます。



●将軍塚から常楽寺へと向かう道路(参道)

ここ別所の温泉が古くから知られ,また信濃国府に近かったこともあって律令時代から大宮人の保養地(別所)として開発が進み,鎌倉時代には,塩田北条氏の手厚い庇護を受けて仏教文化が隆盛したことは,以前の記事でもお話ししたとおりです。
 以下に写真を紹介する常楽寺には,常楽寺宝物館という施設があり一般公開(有料)もされています。ここには,常楽寺に伝わる様々なものが展示保管されています。



●雪の常楽寺本堂

常楽寺は西暦825年,慈覚大師によって創建されたとされています。寺院の長い歴史を物語るかのように,先述の宝物館には,古くは奈良時代のものから鎌倉時代,そして近世近代のものまであらゆる時代の文物が陳列されています。


●雪帽子に雪マフラー(常楽寺境内にて)

中でも,鎌倉街道に関係が深いものは北条国時の木像。高さ20センチ前後くらいの小ぶりな木彫り物で,北条国時が鎌倉への出陣前に甲冑姿を自らの手で彫り刻んだものだと伝えられています。何かを覚悟し,悟りきったような表情に見えました。
 北条国時は,その名が示す通り,鎌倉幕府執権の北条氏の一族。極楽寺流北条氏の流れをくみ,塩田城に居を定めた父,北条義政の跡を継いで,1281年に塩田北条氏2代目の当主となります。以降50年余の長きにわたって信濃を居城としつつ幕府の要職を務め,また信濃守護としても「信州の学海」と呼ばれるまでに,この塩田に仏教文化の一大中心地を築き上げました。


●鎌倉時代のものとされる石塔群(常楽寺境内にて)

 その国時に転機が訪れたのが,1333年5月のこと。父の跡を継いだころには青年だった北条国時も既に老境に達していました。世情のせいか晩年になってから出陣することが多かった,北条国時ですが,「新田義貞,大軍で鎌倉街道を南下」の急報を受けて,子の北条俊時ら一族郎党とともに鎌倉街道(もちろん上道)を一路,鎌倉へと南下。二度と信濃へ戻ることはありませんでした。
 1333年5月22日。幕府軍の一翼としての奮戦もむなしく新田義貞率いる討幕軍に敗れ,北条国時・俊時の父子は鎌倉の東勝寺にて北条得宗家とともに自害しました。


本堂の裏手へと続く,常楽寺の境内を散策しました。一部,墓地になっていますが,多数の石塔が沿道に安置されています。すべてこの地から出土したものだそうで,鎌倉時代のものだといいます。


●安楽寺の八角塔

常楽寺を後にして,ややくだり気味な勾配の石畳を進むと,安楽寺に出ます。雪の中,まばらに人が訪れていました。
 ここ安楽寺は現在は曹洞宗ですが,もともとは臨済宗の寺院。鎌倉時代には,建長寺(鎌倉)と並ぶ禅寺として,信州学海の中心地として隆盛したそうです。
 そして,写真の八角塔(八角三重塔,最下層は初重裳階というもの)は中国の宋王朝時代の建築様式をした仏塔。言い伝えでは塩田北条氏の初代,北条義政による建立であるといわれていましたが,実際にはその子,北条国時によって建立されたものであるとのことです。
 かつて,別所温泉には,安楽寺・常楽寺・長楽寺の3寺院あり,「別所三楽寺」と呼ばれていたそうです。安楽寺と常楽寺は現存するわけですが,長楽寺は江戸時代の中頃に焼失して現存しません。ただ,現在の北向観音堂のすぐそばあたりが長楽寺の境内跡地であったとのこと。



●雪の北向観音堂

最後に辿り着いたのが,北向観音堂です。別所温泉に到着したときには止んでいた雪がまた降り始めてきました。時刻は既に16時をまわり日没の時間帯ですが,厚い積雪のためか,翳りはさほどではありませんでした。
 こちらも常楽寺と同様,825年に慈覚大師によって創建されたとされています。伝説によれば,この地に顕現した観音菩薩を慈覚大師が安置するためにお堂を建てたのが北向観音堂の始まりであり,同時に別院として建立されたのが先出の常楽寺の始まりだとのことです。
 突如,境内の愛染堂の鐘がひとりでに鳴り響きました。
ゴーン,   ゴーン,   ゴーン,   ゴーン,   ゴーーン・・・・

間をおいて5回鳴り響きます。17時ともなると,雪景色も次第に暗くなり境内のあかりも点灯してきました。洗面具を手に境内を横切っていく地元の人,遅く来た観光客の一行・・・
 シャッターが下りて暗くなった参道の土産屋通り。雪降る中,ちらほらと人が行き交う中,自分もまた今宵のお宿へと歩を進めました。


10キロくらい歩いたかな・・・さて,温泉風呂が待ってる,熱い夕食も待ってる・・・
そして明日は一気に大移動だ


なお,今回歩いた道のりを鎌倉街道上道の地図上に示すと以下のとおりです。


●拡大図中のピンク色の線が本レポートで,歩いた範囲。別所温泉駅を始点に反時計回りに温泉郷の古刹群をまわりました。


翌朝,雪積もる別所温泉から


もうひとつの信州の鎌倉街道の県境,


軽井沢へとひとっ飛び!!





次回は,善光寺方面への鎌倉街道についてご紹介します。  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 05:00信州の鎌倉みち

2011年02月07日

雪の鎌倉みち(2) ~下之郷から手塚・別所温泉駅まで



無限に広がる雪景色・・・       


そこには鎌倉へとつづく道が伸びていた


彼の地へ赴く者 この科(しな)の國に来たる者


いざ鎌倉と兵(つはもの)が駆け抜けた古の往還は


今も人々の往来が絶える事はない




●砂原の雪山を背景に生島足島神社の大鳥居

正午過ぎ,下之郷の生島足島神社をスタート地点に,かつての鎌倉街道上道(鎌倉みち)と推定される,長野県道82号別所丸子線(以後,県道82号線)を目指します。
 神社から,平井寺トンネル方面へ通じる県道65号線を徒歩で南進すること30分ほどで,県道82号線へと通じる交差点に至りました。富士山地区と古安曽地区の境あたりから,県道82号線に入って一転,西へ,古安曽地区へと歩を進めます。


●古安曽地区にて

次第に雪が激しく降る中を,道路沿いに歩いていくと,左手にこんもりとした森林が見えてきました。近づくと木造の鳥居も確認できます。

安曽神社です。



●雪降りしきる安曽神社の随神門から本殿を見渡します

無人ながらも,木造の立派な随神門と本殿までの長い参道の造形が優美な神社でした。安曽神社の創建年代は不明ですが,西暦860年に信濃国の権守が社殿を再建した(阿曽山舎社)と社伝の記録にあるそうなので,それ以前から祀られていたと考えられます。また,境内には「石上布留社」という境内社もあり,おそらくヤマトの石上神宮から勧請されたものだろうと説明板に書かれてありました。
 このあたりには古代のある時期に九州阿蘇地方の部族が入植したそうで,安曽(あそ)の名は阿蘇一族と何か関係あるのかもしれないという話もあります。
 さて,この神社は去る2010年の4月に,御柱祭が行われました。次第に強まる風雪の中,そのとき奉納された新しい3本の御柱が本殿脇に建っていました(下写真)。 


九州阿蘇との関連も示唆される古安曽地区の安曽神社ですが,祭神は信州の諏訪三神(健南方富命・大己貴命・八坂刀女命)。
 その後荒廃した安曽神社ですが,やがて鎌倉に幕府を開いた源頼朝が諸国の寺社を修築する命令を出し,安曽神社もその際に石上布留社の境内社として,再建されたそうです。もっとも,今では逆に石上布留社が安曽神社の境内社となってはいますが。

 

●道中,このような標識が(古安曽を過ぎたあたり)


鎌倉みちを西へとさらに歩を進めます。雪もさらに激しさを増してきます。南国育ちの自分には雪景色は大変うれしいのだけど,降雪はさすがに寒い。まだ風がないので傘をさすことが出来たことが救いでした。
 前途,真っ白な中をひたすらまっすぐ歩いていると,時々,車が行き交い,歩く人とも時折,すれ違います。こんな信州の山間でも雪の中でも,人の往来は絶えることはないのだな,と実感した次第です。


あたり一面真っ白だけど,自分は今,かつての鎌倉街道を歩いている。

時折,姿を見せる「鎌倉道(推定)」の標識がそのことを思い出させてくれます。



延々とまっすぐ続く雪道の左手に見慣れた標識。

“前山寺,左折2000メートル”

いわゆる塩田平「信州の鎌倉」スポットの前山寺をはじめ龍光院や中禅寺などは実は,鎌倉街道の推定ルートよりもやや山手に離れたエリアにあるわけですね。

「このあたり,左に歩いて寄り道すれば泥宮に行き着けるけど,行っとく?」

「いいや,泥宮は昨年,桜の季節に行ったので今回は鎌倉街道をまっすぐそちら別所温泉に向かいます」

ケータイごしの会話に出てきた「泥宮」。前回レポートで紹介した生島足島神社と同様,地面(土)自体を御神体とした祠だそうですね。


生島足島神社からもう5キロくらいは歩いたでしょうか。左手,遠巻きに神社に隣接した塚のようなものが見えてきました。

王子塚古墳かな?

携帯していた地図で確認すると,どうやらそうらしいです。そちらへと向かってみると,結構,大きな墳丘,そして墳丘に寄り添うように王子神社の社殿。境内にある説明板によると,5世紀築造と考えられるホタテ型古墳とのこと。後世に設置されたのだろう石の祠が墳丘のてっぺんに並んでいます。


●王子塚(ホタテ型古墳)の墳丘

鎌倉街道は中世半ばである,鎌倉時代初期に完備された道。なので,中世の産物ということになりますが,生島足島神社といい,安曽神社といい,そして王子塚。古代の史跡が意外と多いですね。このことは信州に限らず,東京,埼玉県や群馬県の鎌倉街道についてもある程度当てはまることです。
 中世以降の寺社だけではなく,古代の史跡も鎌倉街道周辺に多いことは,鎌倉幕府が整備した鎌倉街道とはいっても,従来の道を廃して全く新たな道を作ったわけではなく,前時代からある道を可能な限り再利用していることを表しているのかもしれませんね。


激しかった降雪も王子塚あたりでようやく一段落。さらに一本道を歩き,レトロな感じの塩田西小学校を右手に眺めつつ歩き,次第に山間部でカーブする道路をひたすら歩き続けること30分ほど。
 そして,最後の上り坂を歩いていくと見えてきました。





別所温泉駅にある旧丸窓列車

これを見るのは数年ぶりです。ただ,別のところへ移管することを検討しているのだそうですね。

15時,別所温泉到着。生島足島神社をスタートし,雪の中を歩いてほぼ3時間でした。次回は別所温泉エリアをレポートします(つづく)


なお,今回歩いた道のりを鎌倉街道上道の地図上に示すと以下のとおりです。


●拡大図中のピンク色の線が本レポートで,歩いた範囲。基本的に長野県道65号線と82号線(これが鎌倉街道と概ね重なる道路)に沿って別所まで歩きました。  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 10:10Comments(1)信州の鎌倉みち

2011年02月04日

雪の鎌倉みち(1) ~生島足島神社

前回,鎌倉街道上道について概説しましたので,今回からは,信州における鎌倉街道近辺の旬な風景など,ご紹介していきましょう。

去る1月の雪の日,上田電鉄別所線の下之郷駅に降り立ち,駅すぐ近く,日本総鎮守『生島足島神社』に詣でました。


●この鳥居から先が生島足島神社の境内地

あたり一帯が雪化粧の中,朱色を基調とする神社の建物が一層際立っていました。午前10時,本殿前には普段は常駐していないはずの巫女さんの姿が数人。ほどよい賑わいの境内では,新年の振舞い酒などの催しがありました。 


●本殿を囲む神池も真っ白に雪化粧

神池に囲まれた小島の上に建つ本殿の中では,新年の祈祷が随時,催行中。ご神体である大地の上に設置された椅子に腰掛け,神主の祝詞とともに,一同,ご神体である大地に向かって新年の祈願をしています。
 生島足島神社は大地そのものがご神体であることは,由来書や神社のホームページを見れば,書いてあることだけど,本殿がある場所は神池に周囲を取り囲まれた小島(「神島」という名です)。今は,立派な橋が渡されている,その「神島」自体がかつてはご神体として崇められていたということでしょう。



●提灯の氷柱が,信濃の凍てつく寒さを物語っています

仏教が伝来する以前の神道(古神道)では,現在見られるような社殿(本殿)などの建物はなく,山,大木(森林),洞窟,滝,巨岩,はたまた海や池に浮かぶ島など自然物がご神体そのもの,あるいは神が宿る聖域として崇拝され,祭祀が行われてきました。
 この古代祭祀のスタイルが今に残る例を挙げれば,山そのものをご神体とし本殿(神殿)を持たない大神神社(奈良県)や諏訪上社の本宮。森林をご神体とし,やはり本殿がない諏訪下社。巨岩群をご神体とするため本殿がない磐船神社(大阪府)。
 そして,生島足島神社には今は立派な御本殿が「神島」の上に建っているけれど,上古の昔にはやはり本殿はなく,池に浮かぶ島そのものが,穀物を育む「大地の神」として信仰されていたのでしょう。



●古の祭祀遺跡「磐座・磐境」も雪化粧。本殿では祈祷が行われていました

その古代祭祀の痕跡を今に伝えているのが,朱塗りの本殿脇に佇む「磐座・磐境」。1メートル前後のいくつかの大きな岩には今も注連縄が張られています。
 古代の科野(しなの)の人々はきっと,池に囲まれた「神島」の脇にある,磐座・磐境を前に祈りの言葉を捧げ供物を奉ったのでしょうね。



●境内から東へ歩くこと約1キロほどに,朱色の巨大な大鳥居がそびえています

そして,時代がかなり下って中世。生島足島神社の南を,鎌倉幕府と信濃を結ぶ大動脈,鎌倉街道上道(鎌倉みち)が通じるようになると,塩田北条氏をはじめ鎌倉武士から篤く信仰されるようになります。特に,13世紀後半には塩田北条氏の2代目当主,北条国時は生島足島神社の社殿を修築しました。また,証拠はないものの,生島足島の境内社である八幡神社(由来等未詳)も,八幡神を篤く信仰していた中世鎌倉武士が勧請,合祀した可能性が高いのでは,ともいわれています。

昼前,境内から東へ1キロほど離れたところにある大鳥居まで歩きました。昨年の4月には,御柱祭で大変賑わった所です。雪山をバックにそびえる巨大な朱塗りの鳥居は大変見ごたえがありました。
 この大鳥居のすぐ下から,来た道,生島足島神社の本殿がある方向を眺めると,塩田・別所あたりまで独鈷山も見渡せます。


“無限に広がる雪景色”
 
生島足島は「信州の鎌倉」のスタート地点。午後には,見渡すエリアを西へと伸びる鎌倉みちへといよいよ歩を進めました(次回につづく)


なお,今回歩いたエリアを鎌倉街道上道の地図上に示すと以下のようになります。


●拡大図中の茶色の線が本レポートで,歩いた範囲
  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 01:14信州の鎌倉みち

2011年01月31日

【概説2】鎌倉街道上道のあらまし

前回に続いて今回は概説2ということで,信州と関わりの深い鎌倉街道上道を,起点(終点)の鎌倉から順に見ていきましょう。




【1.関東平野の鎌倉街道上道】



鎌倉から碓氷峠(松井田町)に至るまでの鎌倉街道上道のルートは,鎌倉時代後期の「宴曲抄」に歌いこまれているところです。赤字の部分が,街道上の地名だと解釈されている箇所。そして,青字が該当する現在地名を当てたものです。結構,詳細に語られています。

“吹送由井の浜(鎌倉市由比ヶ浜)音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山(鎌倉市常盤)、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢(むら)、小萱(おかや)(藤沢市村岡)刈萱露ながら、沢(藤沢市柄沢)辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれにしといひし人の、干飯た(横浜戸塚区飯田)うべし古も、かかりし井手の沢(町田市本町田)辺かとよ、小山田の里(町田市小野路町)にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関(多摩市関戸)と今ぞしる、おもひきや、我につれなき人をこひ、かく程(国分寺市恋ヶ窪)袖をぬらすべしとは、久米河(東村山市)の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野(埼玉県所沢市)はかぎりもしらずはてもなし、千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、光も細き暁、尋ても見ばや堀難(狭山市堀兼)の出難かりし瑞籬(狭山市三ツ木)の、久跡や是ならん、あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川(狭山市の入間川)、あの此里にいざ又とまらば、誰にか早(苦林,埼玉県毛呂山町)敷妙の、枕ならべんとおもへども、婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵(嵐山町大蔵)槻河の、流れもはやく比企野が原(嵐山町菅谷)、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨、 打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる浪の荒河(寄居町の荒川)行過て、下にながるる見馴川(寄居町の小山川)見なれぬ渡をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、是やは児玉(埼玉県児玉町)玉鉾の、道行人に事とわん、者の武の弓影にさはぐ雉が岡、矢竝にみゆる鏑河(群馬県藤岡町の鏑川)、今宵はさても山な(高崎市山名町)越ぞ、いざ倉賀野(高崎市倉賀野町)にととまらん、夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出(高崎市石原町)や、豊岡かけて見わたせば、ふみとどろかす、乱橋の、しどろに違板鼻(安中市板鼻)、誰松井田(松井田町・碓氷峠)にとまるらん、”

(以上,「宴曲抄」善光寺修行の部より引用)


【2.信濃の鎌倉街道上道(碓氷峠~善光寺)】
これより先,すなわち群馬県から長野県へと続く経路について,同じ「宴曲抄」はさらに以下のように続きます。



(「宴曲抄」善光寺修行つづき)
“薄紅の臼井山(碓氷峠;長野と群馬の県境)、思ふどちは道行ぶりもうれしくて、いかで別れむ離山(軽井沢町の離山)の、其名もつらし過なばや、雲間にしるき明方の、浅間(浅間山がよく見える信濃追分あたりか?)の煙にまがふは、高根に残る横雲の、跡よりしらむしのの目(小諸市東雲区)日影(小諸市御影新田か?)のどけく莫の松原(地名か?)はるばると、へだつる方や葛原(地名か?)の、里より遠の程ならん、深はしらず桜井(地名か?)に、花の白浪散かかり、かすめる空ぞおぼつかなき、望月(佐久市望月宿)の駒牽かくる布引(小諸市の布引観音寺付近)の、山のそがいに見ゆるは、海野(東御市海野宿)、白鳥(東御市本海野か白鳥神社か)飛鳥(とぶとり)の、飛鳥(あすか)の川にあらねども、岩下(上田市岩下)かはる落合(上田市,現在の中心街付近)や、 淵は瀬になるたぐひならん、富士の根の姿に似たるか塩尻(上田市北部の塩尻)赤池(今のテクノさかき駅付近か?)坂木(坂城町,坂城神社付近)柏崎(千曲市柏王か?)、同(おなじ)雲居(くもゐ)の月なれど、何の里もかくばかり、よも佐良科(千曲市更級)と見ゆるは、姨捨山(姨捨,冠着あたり)の秋の夜、筑摩(千曲川)篠の井(長野市篠ノ井)西川(長野市南部の犀川)、さまざまの渡(わたり)を越過(こえすぎ)て 、既に彼所(信濃善光寺のこと)に詣(まうで)つつ、”

(以上,「宴曲抄」善光寺修行の部より引用)


・・・前半部(鎌倉から群馬県松井田まで)と同じく,地名と思しきところは赤字,そして青字は該当の現地名をカッコ書きしましたが,前半部は公的な解釈を引用したものの,後半部分(長野県:軽井沢~善光寺)については,自分の勉強不足で確かな解釈見本が見つけられませんでした。従って,自分で現在地名との比定をしているので未検証であることをご了解ください。なお,不明箇所は「?」や黄字で示しています。
 以上,「宴曲抄」のおかげで,鎌倉街道上道のうち,鎌倉から信濃善光寺へと至る経路は(特に鎌倉から碓氷峠までの道のりはかなり詳細に)比較的わかるのです。ちなみに,この上道の善光寺からはさらに北上して越後,日本海へと抜けていたそうですね。この上道は別所方面への上道と区別するためか「善光寺街道」とも呼ばれています。


【3.信濃の鎌倉街道上道(内山峠~別所温泉)】
一方,関東平野から信濃に入るもうひとつの経路,すなわち現在の群馬県下仁田町から内山峠を経て,長野県佐久市から上田市の別所温泉方面へと至る「鎌倉街道上道」のほうは,文献情報も乏しく,善光寺方面への街道ほどははっきりとしないというのが正直なところのようです。
 鎌倉時代後半に塩田北条氏三代が本拠を置いた塩田城(前山寺の裏山),そして部分的に鎌倉街道の痕跡・伝承が残る砂原峠,依田窪,立科芦田や佐久市浅科(その五郎兵衛館付近には鎌倉道の遺構があるらしい)から内山峠を越えて群馬県へと至る経路を結ぶと,だいたい下の絵図面のように推定されるという次第です。



 別所温泉あたりは,古代の律令時代から鎌倉時代にかかけて信濃国でも仏教の盛んな地域として,「信州の学海」と呼ばれるほど繁栄した地域。現在は「信州の鎌倉」として屈指の歴史文化スポットになっています。さらに,その別所から先,鎌倉街道は西方面へと延びていたらしいのですが,このあたりの研究があまり進んでいないらしいことと,自分の勉強不足も手伝って,別所から西へ街道がどうなっていたのかという知見はほとんど持ち合わせていません。
 ただ,ずっと南西に離れた下諏訪町にも鎌倉街道だという場所があります。鎌倉街道が別所温泉から南へと蛇行して下諏訪に残る鎌倉街道に続いていたのか,それとも,別所温泉までの鎌倉街道上道と下諏訪町の鎌倉街道は別物であるのか?・・・このあたりが不明なので,地図上では,破線と「?」で図示してあります。鎌倉街道が歴史の表舞台に登場する前,律令時代にはこのあたりを「東山道」が通っていました。軽井沢歴史民俗資料館にある展示資料によれば,信濃近隣における,その経路は

飯田-諏訪-松本-青木-上田

だったそうです。すなわち,東山道は諏訪と上田を結びますが,鎌倉街道上道がその東山道を踏襲(経路を変更せずそのまま再利用)していたものであれば,鎌倉から延々,別所温泉あたりにまで伸びていた鎌倉街道はそのまま松本付近を通って下諏訪あたりに出て,そこからさらに今の岐阜県を経て畿内へと通じていた可能性はあるでしょう。


↑諏訪下社春宮(下諏訪町) 

 ちなみに下諏訪町の鎌倉街道ですが,諏訪下社の秋宮と春宮の間あたりにその比定されている場所があるらしいですね。

以上,前回と今回,2回にわけて,信州とも関わりが深い「鎌倉街道上道」を概観しました。

次回は,その上道から「信州の鎌倉」とも呼ばれる,冬の塩田平から別所温泉を数回に分けてご紹介していきます。

(参照文献等)
・「武蔵府中と鎌倉街道」(府中郷土の森博物館出版)
・「宴曲抄」(鎌倉極楽寺の僧,明空 作)
・軽井沢町歴史民俗資料館展示パネル
・佐久村史
  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 22:56信州の鎌倉みち

2011年01月30日

【概説1】鎌倉街道って何?

今回は,鎌倉街道について少し説明したいと思います。

「鎌倉街道」というのは,その名の通り鎌倉と各地方を結んだ道路のことです。鎌倉に幕府が開かれると,この新たな武家の都を起点にしていくつもの街道が整備されました。


●武家の古都鎌倉の象徴,鶴岡八幡宮。ありし日の大銀杏黄葉の風景

 旧来の街道をそのまま踏襲することもあれば,幕府の創設に伴い,ほとんど新たに主要幹道として整備されたものもありました。特に,鎌倉から関東平野を抜けて各地へと向かう下記の3街道は鎌倉の開都とともに地方の支道から,新たな都と各地を結ぶ主要幹道として一気に重要度が高まりました。

すべての道は鎌倉に通ず

主に軍事用の道路,さらには経済交流にも使われたこれらの道はすべて鎌倉に通じており,「かまくらみち」,「鎌倉往還」あるいは「鎌倉街道」などと呼ばれました。

①鎌倉街道上道;鎌倉から上州(高崎)を経て信濃へと向かう道
②鎌倉街道中道;鎌倉から下野(宇都宮)を経て奥州へと向かう道
③鎌倉街道下道;鎌倉から東京湾沿いに下総,常陸へと向かう道


とりわけ①の鎌倉街道上道は上記の主要3街道のうちでも日本の中世史で様々に重要な出来事の舞台にもなった街道です。


●鎌倉から関東平野を経て信濃国へ至る上道の推定経路(クリックでもっと大きな図面が表示されます)
 
の部分は鎌倉幕府近郊の絶対防衛圏内,は現在の関東圏,そしてが現在の長野県に属する部分です。
 この鎌倉街道上道は上州を経て信州へと続くのですが,今の群馬県の藤岡あたりで分岐して,ひとつは西へ下仁田(群馬県)あたりから,県境の内山峠を経て信州(佐久市)へ,さらに上田市の塩田平・別所温泉へと至るルートと,もうひとつは北上して碓氷峠を越えて,ほぼ現在の「しなの鉄道」沿いの経路をたどって善光寺へと至るルートに分かれていたようです。

以上,今回は“鎌倉街道とは何ぞや”というあたりを簡単にご紹介しました。上記の上道・中道・下道の3幹道以外にも,中小の支道が大動脈から分かれる毛細血管のように全国各地に網目のように張り巡らされており,これらの遺構が鎌倉街道伝承地として現存している例もあります。

このブログでは主に①,鎌倉から信州へと至る「鎌倉街道上道」をテーマに扱いますので,次回は「鎌倉街道上道」にスポットを当ててもう少し概説しましょう。


●積雪の信州。別所温泉の安楽寺八角三重塔(左)と信濃善光寺(右)
  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 00:57信州の鎌倉みち

2011年01月25日

諏訪春宮の筒粥神事(後編) ~粥占の結果は~

前編からの続きです。1月14日の夜から炊き始めていた筒粥は,明くる15日の午前5時に結果占いが行われました。

【2011年1月15日 筒粥のト占】


●筒粥が供えられている拝幣殿前に整列する神職

午前5時に,下社春宮の境内に到着すると,地元の報道陣を中心に十数名程度がすでに待ち構えていました。極寒の中,境内の焚き火を囲んで,その時を待ちます。
 
昨夜の火入れ(炊き出し)の始まりと同様,太鼓を合図に神職中が拝幣殿へと歩を進めます。

出来上がった筒粥44本は既に拝殿前に供えられているようで,お祓いや斎主の祝詞の後,3名の神職(斎主を含む)が座上にあがり,筒粥の開鍵が始まりました(下写真)。


●筒粥が供えられている拝幣殿前に整列する神職

44本の筒粥は,43種類の穀物と「世の中」を占うもの。奥中央の神職が筒粥を一本ずつ割り開いて,結果を口頭で伝えます。そして,左の神職がそれを書き記し,その様子を右の斎主が見守っています。

「里芋,上の上」

「なす,下の下」

・・・

筒粥が一本一本あばかれる度,結果が読み上げられます。一同,寒い中でも,それにじっと聞き入ります。

そして,最後に出ました。

「世の中,三分五厘」

以上,全ての筒粥の結果開鍵が終わりました。おそらく30分程度。

最後に,神職が見物者に結果を記した紙を示して,全ての結果を読み上げ(下写真),今年の筒粥神事も終了となりました。


●占い結果を読み上げる神職

世の中は三分五厘。おそらく「十」が満点だろうから,いささか厳しい結果が出たといえるかも。確かに,大卒者の就職内定率が過去最低レベルだったり,数年来の景気の閉塞感,周辺諸国の日本に対する外圧,いろいろ出てくる新たな社会問題・・・
 なるほど,こういった問題はちょっとや,そっとじゃ改善しそうにないですしね。それに,ここ諏訪大社の筒粥神事は,聞くところではよく的中するので,七不思議のひとつに数えられているのだとか。昼間に再び春宮を訪れて,筒粥ト占の結果一覧をいただきましたが,ざっと眺めてみると43種類の穀物も全体的に上の部類が少なく,中や下がやや多めな感が。

温暖化が進めば,全体としての穀物の収穫量は減少に向かうともいいますし・・・

不景気な話はやめておきましょう。もっとも,自分は過去のト占結果を知らないわけですし,絶対値はともかく,運気が上向きか下向きかという相対的なファクターはそれらとの比較対照がないと何とも言いかねるところでしょうから。


●開鍵が済んだ筒粥

ところで,この筒粥神事の由来なりについていくぶん調べてみました。
 ここ諏訪下社の筒粥神事はいつごろから行われているものなのか定かな情報は確認できませんでしたが,かつては諏訪上社でも行われていたそうです(現在はなくなっている)。また,諏訪大社に限らず,全国各地の神社で,小正月あたりに広く行われているようです。
 歴史が古い例を挙げれば,師岡熊野神社(横浜市)というところでは,西暦949年から行われているとされていますし,恩智神社(大阪八尾市)の粥占神事は千年以上前,また淡路島の伊弉諾神宮で行われる粥占祭というものは1200~1300年前に始まったとされていたりします。その他,数百年前に始まったという事例も結構あるようでした。
 諏訪のように筒に入る粥の状態で占うだとか,粥を放置してカビの生え具合で占う(北九州に多い)など,いくらか方法に差異があるものの,その年の穀物の出来高の吉凶を粥を用いて占うというのが基本とする「粥占(かゆうら)」という年占いです。その目的や手法などから,明らかに農耕が始まって以降のト占なのでしょうが,いつの時代から行われていたのかは定かではありません。大陸由来の行事という情報もあったりしますが,延喜式が成立した古代末期には,神事として諏訪大社で見たような手順がほぼ確立していたそうです。
 余談ですが,古代から行われていた筒粥神事(粥占)ですが,同じく古代からのト占である「太占(ふとまに)」とは,由来的には一線を画する存在だったようです。

さて,1月15日の早朝,筒粥神事が一部始終終わった頃には,空も明るみ始めていました。筒粥の歴史を調べたとて,諏訪の筒粥神事がなぜ正確なのかはわかるべくもありません。

ただ,わかるのは

大事なもの,必要なものだったから絶えることなくずっと続いてきたということ

午前6時半,春宮から来た道を再び戻って,宿泊先に戻り再び床に就いた自分でした。

(諏訪の筒粥神事 / おわり)


2012年の諏訪大社筒粥の占い結果はこちら  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 20:55信州の鎌倉みち

2011年01月24日

諏訪春宮の筒粥神事(前編) ~慌てず,急いで,確実に~




高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て
 
八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて

我皇御孫命は豊葦原瑞穂国を 安国と平けく知食せと事依さし奉りき

(大祓詞より冒頭抜粋)


大変,久しぶりの更新になります。
 冒頭の写真は,去る1月14日に行われた諏訪下社の春宮で執り行われた「筒粥神事」。14日の午後8時から大釜に小豆粥と葦の束を入れて炊き,翌未明に粥の出来上がり状態(葦の茎に入る粥の状態をみるらしい)を見て,今年一杯の穀物と世相の吉凶を占う,諏訪下社では重要な神事です。

ところで,下諏訪にもかつて鎌倉街道が通じていたそうで,諏訪下社の秋宮と春宮の間あたりには鎌倉街道だと伝わる古道があるらしいですね。
 今回,信州の鎌倉街道沿いに伝わる伝統神事ということで,2011年1月14日の夜及び15日未明にかけて諏訪春宮の筒粥神事を見学してきましたので,写真とともに順にご紹介します。


【2011年1月14日 筒粥の炊き始め】

1月14日の午後8時前,下諏訪の春宮に至りました。気温は既に氷点下。境内には地元のマスコミと近所からと思しき人がパラパラと訪れている中,神事の始まりを告げる太鼓が響き渡りました。

ドン, ドン, ドン・・・


●社務所を出立し拝幣殿へと向かう神職の行列

太鼓の音に続いて,砂利を踏みしめる足音とともに暗がりの中から,白い浄衣の神職さんが8名ばかり。行列して石畳を辿って,春宮の拝幣殿前へ。そして整列しました。
 そして,斎主が拝幣殿に上がり,一通りの神事を行うこと約30分。寒い中,ずっとその様子を眺めていました。


●拝幣殿前を横切る神職の行列

拝幣殿での神事の後,神職中はいよいよ筒粥殿へと向かいます。その手には,拝幣殿に来る前までにはなかった,三方(鏡餅などを乗せる木台のようなもの)を神職が手にしています。おそらく,ここにお粥の具材(米,小豆)と葦茎の束44本が載っていたのだと思います。


●神職が手にする三方


●筒粥殿へと入る神職中。いよいよ筒粥の炊き込みが始まります

神楽殿の脇から筒粥殿へと入る神職中を見守っていましたが,8名全員が建物の中に入るや即ち,大きなビデオカメラや機材を手にした人,一眼レフを手にした人が一斉に後を追って,筒粥殿の入り口に人垣を作りました。

「あとでいくらでも傍で見学できるようになるから。君はそのとき‘慌てず・急いで・確実に’やれるよう今のうちにフィルム替えなど準備しておきたまえ」

同行してくれていた,ある程度心得ている関東の神職氏のアドバイスにしたがって,ここは‘慌てず’待機。境内の焚き火で暖を取っていると,筒粥殿でから大祓詞を唱和する声が聞こえてきました。
 必要な取材を完了したのか,地元のマスコミの人たちなどは10分ほどで人垣を解いて筒粥殿から離れていき,もともと見物する人も少なかったので(一般の人々も身体は大変寒そうに顔は満悦げな表情で早々と帰っていきました),予見されたとおり苦労せず,すぐ目の前で筒粥神事の様子を見学することができました。

冒頭の写真と下↓の写真が,大釜で粥を炊いている様子。


●粥と葦を炊く大釜を囲む神職中

写真のように8人の神職が大釜のまわりを輪になって,ひたすら大祓詞を唱えていました。

「こうやって大祓詞を始終唱える。これを10回繰り返して今宵の神事はとりあえず終了するから。後は神職が交代で翌朝5時まで火の番をするのだよ。大祓詞は君も鶴岡八幡宮での大祓式で唱えたことがあるはずだから知っているだろ?」

同行の関東の神職氏がそう教えてくれました。そして,その粥炊きの火は古式と同様の方法で火起こしされた火で炊いていることも。

「昔,私が見たある年にはなかなか火が着かなくて,かれこれ1時間以上も寒い中,皆待ち続けたよ」

年によっては粥を炊く火を起こすのに苦労することもあるそうで,今回はものの10分もしないうちに点火できたそうです。
 大釜のは炎が時々ゆらめいています。その大釜の中には小豆と米,そして葦茎の束が一緒に炊かれていてます。それぞれ43種類の穀物と世相を占うため,葦茎(葦の筒)は合計44本。その筒の中に入る粥の状態で各作物と世相の吉凶を,翌早朝に判定します。
 黒い釜を囲み,建物いっぱいに輪になった神職が大祓詞を何度も唱和する様子は厳粛そのもの。寒い夜,諏訪にまで出向いてきた甲斐はあったというものでした。
 
なお,冒頭に大文字のところにある「三角矢印」のマークをクリックして,流れる祝詞のような音声がその大祓詞(フルバージョン)です。

「雰囲気に浸るのもいいけれど,ちゃんと写真もとっておかないと。会社勤めの君にとっては,そうそう見られる代物でもないだろ」

素人ゆえに夜の撮影は失敗が多い自分のことなので,1枚シャッターを切っただけではどうしようもないのは明白。もう10回目(最後)の唱和に入っています。そこは‘急いで’‘確実に’フィルムに焼き付けることが出来ないと,撮影に失敗すれば一生に一度の機会を逃すことにもなりかねないと速やかに何枚もシャッターを切りました。

「慌てず,急いで,確実に! な。」

横から神職氏の小声が入ります。

大祓詞を終えた神職中が筒粥殿を後にしました。境内はもはや自分たちと後から見に来た人たちが数人。

「さあ,温泉が待ってる。皆も待ってる。」

午後9時半,真っ暗な春宮の境内を後にしました。

(筒粥神事後編へ続く)
  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 04:00信州の鎌倉みち

2010年11月02日

今が旬,紅葉の別所温泉郷~おまけ写真

紅葉の別所温泉郷,前号で使わずに余った写真です。



北向観音の愛染桂と鐘楼



安楽寺裏山への参道



安楽寺八角塔



常楽寺の石造多宝塔へと至る道は黄葉のじゅうたん



日陰ではもみぢが凍てついていました~常楽寺境内にて


別所温泉の歴史を学習しつつ,北向観音,安楽寺,常楽寺と歩いて回ったあとは,
温泉でリフレッシュ


  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 03:00信州の鎌倉みち

2010年10月31日

紅葉の別所温泉郷 ~鎌倉と並ぶ仏教の学海


別所温泉の崇福山安楽寺にて

前回の記事からの続編です。

塩田平に寺院群を訪ね歩いた日の夜は別所温泉に宿泊しました。
 別所地区は標高約600メートルの地点にあります。山々に囲まれた盆地で静かな里の風景が広がる塩田平とは対照的に,山合いに所狭しと旅館・土産屋・銭湯などが密集するちょっとした温泉街です。面積だけでいえば約700メートル四方の小さなエリアに,塩田北条氏ゆかりの仏閣寺院がいくつか存在します。

温泉と買い物を楽しみつつ,温泉郷の古寺古塔を訪ね歩きました。

最初に向かったのは北向観音(右写真)。
 現世利益をつかさどる観音様なのだそうです。
 西暦825年に慈覚大師が千手観世音を安置したのがこの観音堂の始まりだそうで,天台宗の寺院です。その後,増築や復興を経て,塩田北条氏によって整備され,ほぼ現在の形になったそうです。
 午前8時,開門されたばかりの境内には既に多くの人々が訪れていました。また,北向観音本堂への参道沿いには観光客向けの土産屋や食事処が軒を連ねています。北向観音の開門と同時に営業開始するので,参拝に訪れた人々がそのまま買い物などを楽しむのです。

クルミおはぎにクルミ味噌,クルミゆべしに野沢菜の漬物・・・

やはり地元特産の品が人気のようでどんどん買い手がついていました。自分も例に漏れずクルミ味噌のおやきを購入,程よいつぶつぶ感とやや渋めの甘味が良かったですよ。

現世ご利益の観音様と土産屋街はやはり相性がいいようですね。

北向観音を背にして,参道の店舗街を抜けて200メートルほど歩くと,安楽寺に至ります。
 かつて鎌倉の建長寺に匹敵する規模の学僧を抱えたという広大な境内&伽藍が山腹の鬱蒼とした森林の中に横たわります。
 周囲に店が集まる現世的な北向観音とは対照的な雰囲気でした。また,安楽寺の総門ともいうべき黒門の傍らには,「不許葷酒入山門(飲酒したり生臭い者は山門に入ってはならないという意味)」の石碑があり,俗世とと一線を画しているという印象です。


旅館の横にある安楽寺の黒門

 多々ある安楽寺の建造物の中でも特筆すべきは,境内を上り詰めたところにある八角塔。最新の研究では1290年代,塩田北条氏2代目の北条国時のころに建立されたとされています。中国の宋王朝時代の建築様式をした仏塔で,日本ではここにしか現存しません。
 午前の日射しで一際色鮮やかな紅葉をバックにそびえる秀麗な姿は必見!訪れる人皆,感嘆していました。
 鎌倉時代,塩田北条氏の手厚い庇護を受けて,安楽寺は繁栄します。中国とも活発に人材交流を行ったり,鎌倉の建長寺とも密接な関係を持ったりして,信州での禅の中心地として名を馳せました。この八角塔もそんな最盛期の真っ只中のころに建立されたと考えられています。


八角塔は安楽寺一番のビュースポット

鎌倉時代に北条義政とその子孫が塩田平・別所温泉一帯を領地経営していたこと,そのために鎌倉文化がこの地域で花開いたことは前号でも述べたとおりですが,それ以前の歴史を紐解いてみると,別所付近の歴史は意外と古いことがわかります。
 別所温泉の存在は平城京遷都(710年)以前から大和朝廷の宮人たちに知られていたようです。
 
奈良時代には上田に信濃の国府と国分寺が置かれ(上田市郊外に遺構が残っています),古代には現在の上田市あたりは信濃の中心地でした。国府に程近い別所温泉は当時から役人・貴族の保養地として開発されていたとのことです(「別所」という地名自体,当時の宮人たちの別荘という意味です)。
 平安時代になると,9世紀はじめに慈覚大師(最澄の弟子)が,おそらくは信濃国分寺を媒介にして別所の地に安楽寺・常楽寺・長楽寺(現在の北向観音)を創建し,その150年後には将軍として信濃に赴任してきた平維茂が別所の寺院群の修築と再興に尽力しました。ちなみに平維茂のものと云われる将軍塚が別所温泉街の入り口付近にあります。


紅葉の将軍塚

このような奈良時代から平安時代にかけてのバックボーンの後に塩田北条氏の時代が訪れ,仏教文化が大成したわけです。
 信濃国府に近く,それなりに別荘地として開発されていたため,北条氏が塩田に本拠を置くことを可能にしたでしょうし,また,慈覚大師や平維茂といった先人の手で寺院の基礎が作られていたことが,別所に大規模な仏寺を建立する原動力になっただろうことは想像に難くありません。

 前時代からのたゆまない積み重ねを土台に,塩田北条氏が本場鎌倉で花開いていた仏教文化をもたらしたことで「信州の鎌倉」が誕生したのでしょうね。




信州の鎌倉もまた一日にしてならず

  

Posted by まほろば旅日記編集部 at 03:30信州の鎌倉みち

2010年10月27日

黄葉の塩田平 ~塩田北条氏が夢のあと


塩田平,地蔵尊と黄葉(前山寺参道にて)

長野県上田市の塩田・別所は「信州の鎌倉」と呼ばれ,平安~室町時代にかけて造られた寺院が数多く存在します。しかし,寺院が密集しているというだけでそのような異名をとっているわけではありません。鎌倉の北条氏のひとり,北条義政が1277年に信濃国塩田荘に遁世し,それ以降50年余り3代にわたって北条氏がこの地域を治めました(塩田北条氏)。その間,鎌倉風の仏教文化が塩田及び別所の地に栄えたのです。
 何年か前のちょうど今頃の時節にこのあたりをめぐりましたが,寒気の訪れが早い今年はもう塩田あたりは木々が黄色く色付いているのではないでしょうか。
 以下,当時の思い出など交えながらレポートします。

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Posted by まほろば旅日記編集部 at 23:49Comments(2)信州の鎌倉みち