2011年01月31日

【概説2】鎌倉街道上道のあらまし

前回に続いて今回は概説2ということで,信州と関わりの深い鎌倉街道上道を,起点(終点)の鎌倉から順に見ていきましょう。

【概説2】鎌倉街道上道のあらまし


【1.関東平野の鎌倉街道上道】

【概説2】鎌倉街道上道のあらまし【概説2】鎌倉街道上道のあらまし

鎌倉から碓氷峠(松井田町)に至るまでの鎌倉街道上道のルートは,鎌倉時代後期の「宴曲抄」に歌いこまれているところです。赤字の部分が,街道上の地名だと解釈されている箇所。そして,青字が該当する現在地名を当てたものです。結構,詳細に語られています。

“吹送由井の浜(鎌倉市由比ヶ浜)音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山(鎌倉市常盤)、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢(むら)、小萱(おかや)(藤沢市村岡)刈萱露ながら、沢(藤沢市柄沢)辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれにしといひし人の、干飯た(横浜戸塚区飯田)うべし古も、かかりし井手の沢(町田市本町田)辺かとよ、小山田の里(町田市小野路町)にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関(多摩市関戸)と今ぞしる、おもひきや、我につれなき人をこひ、かく程(国分寺市恋ヶ窪)袖をぬらすべしとは、久米河(東村山市)の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野(埼玉県所沢市)はかぎりもしらずはてもなし、千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、光も細き暁、尋ても見ばや堀難(狭山市堀兼)の出難かりし瑞籬(狭山市三ツ木)の、久跡や是ならん、あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川(狭山市の入間川)、あの此里にいざ又とまらば、誰にか早(苦林,埼玉県毛呂山町)敷妙の、枕ならべんとおもへども、婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵(嵐山町大蔵)槻河の、流れもはやく比企野が原(嵐山町菅谷)、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨、 打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる浪の荒河(寄居町の荒川)行過て、下にながるる見馴川(寄居町の小山川)見なれぬ渡をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、是やは児玉(埼玉県児玉町)玉鉾の、道行人に事とわん、者の武の弓影にさはぐ雉が岡、矢竝にみゆる鏑河(群馬県藤岡町の鏑川)、今宵はさても山な(高崎市山名町)越ぞ、いざ倉賀野(高崎市倉賀野町)にととまらん、夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出(高崎市石原町)や、豊岡かけて見わたせば、ふみとどろかす、乱橋の、しどろに違板鼻(安中市板鼻)、誰松井田(松井田町・碓氷峠)にとまるらん、”

(以上,「宴曲抄」善光寺修行の部より引用)


【2.信濃の鎌倉街道上道(碓氷峠~善光寺)】
これより先,すなわち群馬県から長野県へと続く経路について,同じ「宴曲抄」はさらに以下のように続きます。

【概説2】鎌倉街道上道のあらまし【概説2】鎌倉街道上道のあらまし

(「宴曲抄」善光寺修行つづき)
“薄紅の臼井山(碓氷峠;長野と群馬の県境)、思ふどちは道行ぶりもうれしくて、いかで別れむ離山(軽井沢町の離山)の、其名もつらし過なばや、雲間にしるき明方の、浅間(浅間山がよく見える信濃追分あたりか?)の煙にまがふは、高根に残る横雲の、跡よりしらむしのの目(小諸市東雲区)日影(小諸市御影新田か?)のどけく莫の松原(地名か?)はるばると、へだつる方や葛原(地名か?)の、里より遠の程ならん、深はしらず桜井(地名か?)に、花の白浪散かかり、かすめる空ぞおぼつかなき、望月(佐久市望月宿)の駒牽かくる布引(小諸市の布引観音寺付近)の、山のそがいに見ゆるは、海野(東御市海野宿)、白鳥(東御市本海野か白鳥神社か)飛鳥(とぶとり)の、飛鳥(あすか)の川にあらねども、岩下(上田市岩下)かはる落合(上田市,現在の中心街付近)や、 淵は瀬になるたぐひならん、富士の根の姿に似たるか塩尻(上田市北部の塩尻)赤池(今のテクノさかき駅付近か?)坂木(坂城町,坂城神社付近)柏崎(千曲市柏王か?)、同(おなじ)雲居(くもゐ)の月なれど、何の里もかくばかり、よも佐良科(千曲市更級)と見ゆるは、姨捨山(姨捨,冠着あたり)の秋の夜、筑摩(千曲川)篠の井(長野市篠ノ井)西川(長野市南部の犀川)、さまざまの渡(わたり)を越過(こえすぎ)て 、既に彼所(信濃善光寺のこと)に詣(まうで)つつ、”

(以上,「宴曲抄」善光寺修行の部より引用)


・・・前半部(鎌倉から群馬県松井田まで)と同じく,地名と思しきところは赤字,そして青字は該当の現地名をカッコ書きしましたが,前半部は公的な解釈を引用したものの,後半部分(長野県:軽井沢~善光寺)については,自分の勉強不足で確かな解釈見本が見つけられませんでした。従って,自分で現在地名との比定をしているので未検証であることをご了解ください。なお,不明箇所は「?」や黄字で示しています。
 以上,「宴曲抄」のおかげで,鎌倉街道上道のうち,鎌倉から信濃善光寺へと至る経路は(特に鎌倉から碓氷峠までの道のりはかなり詳細に)比較的わかるのです。ちなみに,この上道の善光寺からはさらに北上して越後,日本海へと抜けていたそうですね。この上道は別所方面への上道と区別するためか「善光寺街道」とも呼ばれています。


【3.信濃の鎌倉街道上道(内山峠~別所温泉)】
一方,関東平野から信濃に入るもうひとつの経路,すなわち現在の群馬県下仁田町から内山峠を経て,長野県佐久市から上田市の別所温泉方面へと至る「鎌倉街道上道」のほうは,文献情報も乏しく,善光寺方面への街道ほどははっきりとしないというのが正直なところのようです。
 鎌倉時代後半に塩田北条氏三代が本拠を置いた塩田城(前山寺の裏山),そして部分的に鎌倉街道の痕跡・伝承が残る砂原峠,依田窪,立科芦田や佐久市浅科(その五郎兵衛館付近には鎌倉道の遺構があるらしい)から内山峠を越えて群馬県へと至る経路を結ぶと,だいたい下の絵図面のように推定されるという次第です。

【概説2】鎌倉街道上道のあらまし【概説2】鎌倉街道上道のあらまし

 別所温泉あたりは,古代の律令時代から鎌倉時代にかかけて信濃国でも仏教の盛んな地域として,「信州の学海」と呼ばれるほど繁栄した地域。現在は「信州の鎌倉」として屈指の歴史文化スポットになっています。さらに,その別所から先,鎌倉街道は西方面へと延びていたらしいのですが,このあたりの研究があまり進んでいないらしいことと,自分の勉強不足も手伝って,別所から西へ街道がどうなっていたのかという知見はほとんど持ち合わせていません。
 ただ,ずっと南西に離れた下諏訪町にも鎌倉街道だという場所があります。鎌倉街道が別所温泉から南へと蛇行して下諏訪に残る鎌倉街道に続いていたのか,それとも,別所温泉までの鎌倉街道上道と下諏訪町の鎌倉街道は別物であるのか?・・・このあたりが不明なので,地図上では,破線と「?」で図示してあります。鎌倉街道が歴史の表舞台に登場する前,律令時代にはこのあたりを「東山道」が通っていました。軽井沢歴史民俗資料館にある展示資料によれば,信濃近隣における,その経路は

飯田-諏訪-松本-青木-上田

だったそうです。すなわち,東山道は諏訪と上田を結びますが,鎌倉街道上道がその東山道を踏襲(経路を変更せずそのまま再利用)していたものであれば,鎌倉から延々,別所温泉あたりにまで伸びていた鎌倉街道はそのまま松本付近を通って下諏訪あたりに出て,そこからさらに今の岐阜県を経て畿内へと通じていた可能性はあるでしょう。

【概説2】鎌倉街道上道のあらまし
↑諏訪下社春宮(下諏訪町) 

 ちなみに下諏訪町の鎌倉街道ですが,諏訪下社の秋宮と春宮の間あたりにその比定されている場所があるらしいですね。

以上,前回と今回,2回にわけて,信州とも関わりが深い「鎌倉街道上道」を概観しました。

次回は,その上道から「信州の鎌倉」とも呼ばれる,冬の塩田平から別所温泉を数回に分けてご紹介していきます。

(参照文献等)
・「武蔵府中と鎌倉街道」(府中郷土の森博物館出版)
・「宴曲抄」(鎌倉極楽寺の僧,明空 作)
・軽井沢町歴史民俗資料館展示パネル
・佐久村史


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Posted by まほろば旅日記編集部 at 22:56 │信州の鎌倉みち